論潮 6月
高原太一
今回は、各論考に目を配りながら論じるのではなく、『世界』の特集2「いきていく憲法」に寄稿された新城郁夫さんの「憲法九条は沖縄との約束である」に絞って考えます。この新城論考によって、私の九条観や憲法観がガラリと変わる衝撃を受けたからです。
はじめに、私的経験を記します。日本国憲法という存在について知ったのは、小学校の時です。ホームルームの際に、日本国憲法という本が配られたのを覚えています。なにやら大切なものがこれから渡される感じで、いつもと違う雰囲気だったことを思い出します。
それから、現在まで随分と時間が経ちますが、今回、新城論考を読むまで、憲法とりわけ九条については微妙な思いを持っていました。違和感の原因は、沖縄の歴史と基地の存在でした。九条の裏には、つねに沖縄の米軍占領があると習い、その認識抜きにして本土の戦後や「平和」について考えることはできないと思っていました。だからこそ、新城さんから九条という言葉が出てくることに驚き、論考のなかで九条や憲法の価値全体の掘り起こしが試みられていることに、意表を突かれました。
さて、論考の内容に立ち入っていきます。まず確認したいのは、憲法九条が、戦争放棄と戦力不保持を国家に厳命したものであることです。この「約束」が、いつの間にか捨て去られる傾向が強まっている。九条について、真面目に取り上げようとしない(私もそうです)。そして、本来はそこにあったはずの「約束」を反故にするどころか、「約束」の意味すらも分かっていない(私たち)。そのような状況に対して、新城論考は呆れと憤りの気持ちを漂わせながら記されています。
しかし、この論考は、これまでの「九条神話」(私の造語)の繰り返しではありません。イメージされてきたような「九条」とは、とことん異なる地平を展望させてくれるのです。
それでは、九条とは、なんであるのか。沖縄の「復帰」運動のなかで、九条や日本国憲法はどのような位置にあったのか。新城さんは、「復帰」運動当時の決議や抗議文、要請文を読み直す作業を通じて、次のような史実を発見します。「復帰」運動のなかで発せられた声や訴えは、日本やアメリカに限定されない無数の宛先に向けて呼びかけられていること、それが実際的には難民の位置から全世界の人びとに向けられていたこと(一二三頁)。この「宛先の多数性」こそが、「復帰」運動と日本国憲法とくに九条とが交差するところなのです。
新城論考では、九条と前文がその条文の構成において、日本国民以外への誓約となっていることが確認されます。なぜ、そのような誓約の形式を採っているのか。言い換えれば、「国民の枠に閉じることを予め禁じて、国民以外の存在へと宛先を複数化」(一二六頁)するのかといえば、とくに第二次世界大戦とそれ以前において、戦争被害と植民地被害を与えたアジア地域の人びとや国々を無視したまま、国内情勢に乗じて改廃することができないようになっているからです。裏返していえば、九条を改廃するという行為は、戦争と植民地支配への反省を過去のものとすることはもちろん、憲法のなかに予め含まれているさまざまな応答関係や問いの組成力自体を無視/廃棄することを意味するのです。
そのように考えれば、九条で掲げられている戦争放棄や戦力不保持に対して不満を抱く政治家たちの態度や思想が、実際のところ、なにを嫌悪しているのかが見えてきます。私の理解ですが、憲法九条は、考えられているほど抽象的ではない。むしろ、きわめて具体的に禁じているものを明示し、なぜ禁じているのかという歴史的根拠をも記しているのです。
もう一つ新城論考で論じられているのが、憲法九条を無効化するものの正体です。その毒消しのような存在が、日米安保条約(一九五二年発効)です。この日米間での取極めが、九条とのあいだで最大の矛盾となっている。
新城論考を読みながら、日本の戦後史とは、九条と安保のあいだにあるものの歴史であったと考えました。その両極のあいだにひろがる膨大な場を日常と呼ぶならば、九条に近い方に、さまざまな民衆による闘争があり、安保に近くてほとんど不分離なところに戦争がある。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、テロとの戦争、現在と続いていく戦争です。その戦争の姿がもし見えないのだとすれば、本質的になにが見えていないのか。新城論考から直接引けば、「これだけの軍事基地と核兵器を含めた軍事機能が存在すること自体が、憲法に違反し、国際的誓約に違反しているのであって、日本が単に違法国家であることは、沖縄から見るとき、火を見るより明らかである」(一三〇頁)。見えていないのは、日本という国家の違法性であり、見えるための手助けとなるのが、憲法と九条というプリズムである。
すでに型破りの論潮となっていますが、最後にもう一つだけ、言葉を引用します。それが、一九五九年に東京地裁で出された、いわゆる伊達判決の言葉です。伊達裁判長は、五七年に発生した砂川事件(デモ隊が数メートル米軍基地内に侵入したことで、日米安保条約第三条に基く行政協定に伴う刑特法違反で罪に問われた若者たちの行為)に対して、全員無罪を言い渡し、その理由として、米軍の駐留がそもそも違憲であることを述べました。なぜ違憲なのか。以下は、伊達判決からの抜き書きです。「合衆国軍隊の駐留を許容したわが国政府の行為は、『政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起きないようにすることを決意』した日本国憲法の精神に悖るのではないかとする疑念も生ずるのである」。また、「合衆国軍隊の駐留を許容していることは、…日本国憲法第九条第二項前段によつて禁止されている陸海空軍その他の戦力の保持に該当するものといわざるを得ず、結局わが国内に駐留する合衆国軍隊は憲法上その存在を許すべからざるものといわざるを得ないのである」。
二〇代の若者たちが、砂川の農地から柵を越えて、米軍基地内に立ち入ったとき、彼/彼女たちは、何者でもなくなったわけです。期せずしてみずから「難民」になった。国家が安保条約を盾に境界を越えた者たちの取り締まりに走る一方で、その離脱を受け止める「宛先」が憲法九条と前文の言葉だったのです。伊達判決が果たそうとした「約束」は、最高裁によって破られます。その後弁護士となった伊達秋雄は沖縄の闘争にもコミットしていきます。
ずっと忘れていた日本国憲法との初めての出会いの瞬間のこと。なにか大事なものを手渡されたという感覚。それは、新城論考を読んで生まれた後追いの記憶かもしれません。しかし、「宛先」の中に私も含まれているという自覚はこれからも消えぬ約束としたいのです。小学校で習ったことの一つが、指切りげんまんではじまる未来に向けた繫がりの感覚を願いとすること(友との約束を守ること)だったのですから。(たかはら・たいち=成城大学研究員・戦後民衆運動史)
