2025/10/17号 4面

経済とイデオロギーが引き起こす戦争

経済とイデオロギーが引き起こす戦争 岩田 規久男著 吉松 崇  本書は、経済学者で日銀副総裁を務め、2013年からのいわゆる「異次元金融緩和」を主導した著者による戦争論である。戦争論といえば、これまで歴史家や政治学者によるものが殆どであった。こうした書物では、戦争に至るまでの外交交渉や国内での権力闘争が語られる。だが、これらの著者は、通常、経済の専門知識を持たないので、或る国が置かれた経済状況と戦争の因果関係が語られることはない。この本は、一言でいえば、このことに不満を持った著者による経済学の分析枠組みをベースとする戦争論である。  それでは、著者の分析を具体的に見てゆこう。先ず、第一次大戦である。「サラエボ事件」を契機として、オーストリア=ハンガリーとセルビアを後見するロシアが対立するのは分かる。しかし、幾ら同盟関係が背後にあるとは言え、イギリス・フランスとドイツが血で血を洗う凄惨な戦争にまで行き着いたことは、容易には理解し難い。著者は、ピケティの『21世紀の資本』とイングランド銀行の長期マクロデータを援用して、19世紀末から20世紀初頭にかけて、イギリスとフランスで、国全体での著しい繁栄にもかかわらず、国民の半数以上が貧困層に属する「超格差社会」が出現していたことを示す。さらに、この時代、イギリスとフランスは新興工業国のドイツに対し、大きな貿易赤字を抱え、ドイツ製品が国内に氾濫した。これがイギリスとフランスの庶民の間に、激しい反ドイツ感情を生んだ。この帝国主義の時代、一方の「持たざる国」ドイツでも、反イギリス・フランス感情が強まる。「愛国的ナショナリズム」が戦争正当化のイデオロギーとなる。  ここで重要なのは、「超格差社会」の背景には、当時の通貨制度である国際金本位制があることだ。金本位制のもとでは、貿易赤字国では金が流出し、デフレ圧力が働き、成長率が低下し、失業率が上昇する。  日本の戦争、「大東亜戦争」はどうだろう。著者はここでも、国際金本位制に戦争の遠因を見る。第一次大戦の最中、主要国は金本位制を放棄したが、1919年にアメリカが金本位制に復帰したのを皮切りに、イギリス(1925年)、フランス(1928年)等、主要国が次々と金本位制に復帰し、日本も復帰を目指した。日本は、大戦景気の1916―19年に年20~30%で伸びたマネーストック増加率を20年代に年2~3%増にまで落として、既にデフレ不況に陥っていたが、1929年7月に成立した濱口・民政党内閣は、井上準之助蔵相の主導のもと、デフレ下の実勢為替レートよりも、さらに円高の為替レートで1931年1月に金解禁・金本位制への復帰を強行する。いわゆる「旧平価による解禁」である。  この金本位制への復帰により、日本経済は壊滅的状況に陥った。昭和恐慌である。1920年代の実質GDP成長率は年平均1・9%とデフレ不況で既にかなり低かったが、1930年の実質GDP成長率は実にマイナス7%、31年は0・8%である。これは経済失政以外の何物でもない。  ケインズが旧平価(ポンド高)での金本位制への復帰に反対したのは有名だが(「チャーチル氏の経済的帰結」)、日本で旧平価での金解禁に反対したのは、石橋湛山をはじめ、ごくわずかの人達だった(「新平価4人組」)。  この昭和恐慌期は、クーデター未遂事件や要人への襲撃事件が相次いだ。極め付きは、32年5月の犬養毅首相暗殺である(五・一五事件)。注目すべきは、この事件で世間の同情を集めたのは、暗殺された犬養首相ではなく、犯行に及んだ青年将校たちだったことだ。  31年9月の満州事変に見られるように、戦争推進のイデオロギーは「領土拡張主義=帝国主義」である。しかし、1920年代の日本はワシントン体制にみられるように、一方で「国際協調=自由貿易主義」を推進する勢力も存在した。結局のところ、国内政治の場で、戦争推進のイデオロギーが勝利したことで、日本は戦争に突入した。その決定的な転換点が、昭和恐慌であるとこの本の著者は考える。経済失政のせいで、塗炭の苦しみにあえぐ市井の人々が政党政治家に愛想を尽かした象徴が、五・一五事件に対する人々の反応であった。事実、この事件で政党内閣は終焉する。  それでは、1941年の日米開戦は避けることができたのだろうか? この問いに対し、著者はハルノートを読み直すことまでして、答えを探ろうとする。ここでこれ以上、私が概略を語るのは止めよう。是非、この本を手に取って頂きたい。ただ、1930年代の日本の貿易相手国とのシェアを見ると、輸出も輸入もアメリカが約30%と圧倒的で、満州はその3分の1に過ぎない。結論を言えば、「満蒙ではなく、アメリカとの貿易が日本の生命線だった」(319頁)と言うことだ。  この本のメッセージは明確である。「経済に無知な人たちに、政治や軍事を委ねることが、いかに危険か」(352頁)ということである。これから先、この本のようなアプローチ抜きで戦争を語ることは、もはや無意味である。(よしまつ・たかし=経済金融アナリスト)  ★いわた・きくお=上智大学名誉教授・学習院大学名誉教授・金融論・都市経済学。二〇一三年から五年間日本銀行副総裁を務める。著書に『資本主義経済の未来』『経済の道しるべ』『「日本型格差社会」からの脱却』『なぜデフレを放置してはいけないか』『日銀日記』など。

書籍

書籍名 経済とイデオロギーが引き起こす戦争
ISBN13 9784334106348
ISBN10 433410634X