2026/05/15号 2面

論潮・5月(高原太一)

論潮 5月 高原太一  今回から新しい論壇誌が加わります。今年3月にゲンロン社から創刊された『ゲンロンy』。巻頭に置かれた「創刊にあたって」が熱い意気込みを伝えています。「新しい感性とスタイルをあわせもった多様な表現者たちが、領域横断的に集結することができる媒体でありたい」(六頁)。  ポイントは、新しい感性とスタイルのようです。つまり若く、フレッシュであること。雑誌名のyは、youngから来ているようです。その証拠に四人の編集委員の名前が並んでいますが、全員が九〇年代生まれ。もう少し「宣言」を読んでみると、目指す感性とスタイルについてつぎのように例示されています。「わたしたちはカルチャーを楽しみながら、政治についても考えられる。国際社会を論じながら、若者文化のこれからをスケッチしていくことだってできる…もっと自由になろう。予想外がおもしろい。明日のファッションに悩みながら天下国家の行く末を論じてみたい」(八頁)。  ページを繰りながら、八九年生まれの私は、不思議な感覚に陥りました。どこか既視感がある。でも、なにかが決定的に違う。既視感と述べたのは、私がカルチュラル・スタディーズに馴染みがあるからでしょう。こういう感性やスタイルの提唱、雑誌を造ろうとするフットワークの軽さは好きなところです。では、なにが異なるのか。それは特集1「令和カルチャー!」に収載されている編集委員を中心とした座談会「令和カルチャーって、なに」を読んださいに感じたものです。ここでは、「令和になってあらわれてきた新しいカルチャー」についてのやり取りがおこなわれています。そのなかでも「界隈」の話が面白いですが、私が知っている、いわゆるカルスタではよく出てくる抵抗の話がありません。消費も政治も当事者性の話もあるのに、抵抗が論じられない。  いや、もしかすると、違うかたちで語られているのかもしれません。そう思わされたのが、投稿論文の一つである、のしりこさんの「共病のすすめ」を読んだときでした。くしくも私と同年生まれの筆者は、線維筋痛症と慢性疲労症候群という病気で、ほとんど寝たきりで暮らしているようです。つねに全身に激痛と極度の疲労感があり、頭痛やめまいも日常的に起こるなかで、おもにnoteで自分の病いとその日々を書いている。そのエッセイは、これまでならば「闘病記」と括られそうですが、その名づけに対して筆者は違和感を表明します。かわって筆者は「共病」という言葉を提示します。「共病とは、病いと共にありながら、主体的に、自分として生きること。…病いと距離を取りながら、不確かで揺らぐ日々を生きること」(三二五頁)。  先ほど引用した「宣言」に戻りましょう。「共病のすすめ」を読んだあとに、もう一度「明日のファッションに悩みながら天下国家の行く末を論じてみたい」という言葉を読むと、ここにもひとつの「すすめ」があることを感じます。語られているのは、のしりこがいう「距離を取りながら生きること」ではないか。  『思想』の特集「原広司と〈集落〉」に収められた論考は、どれもが建築家・原広司の「離れて立つ」思想の根幹にあるものを、まるで友人たちが、たき火に集まって来てそれぞれ話していく趣きで、あたたかさに満ちています。のしりこさんが、病いと距離を取りながら生きているように、原の「門下生」たちも、つねに原と対話しながら、生を営んでいるのが分かります。その関係性は「界隈」にも少し似ています。先述の座談会で界隈は、「参加する自由はあるけど、維持しなくてもいい気楽さがある」(四二頁)と定義されています。まさに原研究室に限らず、大学のゼミや教室は、そういった共同体がもつ可能性を制度化したところがあるはずです。  しかし、現状はそう上手くいくわけではありません。それを明らかにするのが、『現代思想』の特集「教育は誰のためか」です。特集では、令和カルチャーの最たるものAIが、教育現場にどのような影響を与えているのかも論じられていますが、ここでは安里琉太さんの「教育の現場で俳句をすること」を取り上げます。これも「離れて立つ」ことがテーマだと思いました。高校教諭でもある筆者は、部活動や大会、コンクールの〈場〉で、俳句がどのように評価されるのか、その評価が、高校生たちの俳句/テクスト生成や身体のふるまいに、どう管理として作用しているのかを論じています。しかし、筆者の主眼は、その評価基準の改善や見直しを図ることには必ずしも置かれていなそうです。正岡子規について「病中にあって書き続けた人」(一四八頁)と呼ぶように、句を書くこと、もっとひろげて書くという行為一般には、「耐えがたいような出来事の最中にあっても、書くことの優しさが生を肯定してくれることがある」(同上)からです。その至福の境地において、人は自然と評価が代表するものから「離れて立つ」ことが出来ている。たんに時間を忘れるのみならず、「自らが知り得なかった自身や他者に邂逅する」(一四九頁)ことさえ可能です。だからこそ、のしりこさんに戻れば、それは闘いではなく、出会いであり、喜びをも含む経験なのでしょう。  もちろん、のしりこさんや論考で触れられているフリーダ・カーロは「痛み」について多く表現しています。「共病」であると同時に「共痛」でもあった。しかし、のしりこさんがフリーダの日記に綴られた「希望の樹よ、しっかりと立て」(三三二頁)に注目しているのは、本稿において示唆的です。なぜなら、痛みでさえ、原の言葉を借りていえば「思考を触発するということ」、(痛みの)「わかりにくさが重要」と重なるからです。フリーダ=のしりこも、原も、安里も「離れて立つ」ことをみずからに、さらには読み手に促す書き手です。  最後に、どのような思考や志向が、「離れて立つ」ことを困難にするのかを考えましょう。『世界』の特集2「生成AI化する日常」に寄せられた、レベッカ・ソルニットさんの「テクノロジーが奪うもの」がヒントをくれそうです。そこには、私たちがなにから解放されないといけないのかが記されています。「ありったけのものを手にしつつ明け渡すものは最小限にするのだという資本主義の主張だ。現実には、与えることによって得られるものもある」(一四八頁)。ソルニットは、AIコンパニオンが持つ弱点を明かします。「わたしたちに必要なのはお世辞を言ってくれる存在ではない。人生に必要なのは、道を外れてしまったときに本当のことを言ってくれるやさしき人びとだ」(一五二頁)。「離れて立つ」ことは、なにかを奪うこととは対照的な、助ける手を差し出せる距離に立つということかもしれません。『ゲンロンy』も、天下国家が道を外れそうなときに鋭い批判を投げかける、そんな「やさしき」雑誌であることを期待しています。(たかはら・たいち=成城大学研究員・戦後民衆運動史)