2026/10/16号 5面

《蝶々夫人》論

《蝶々夫人》論 長木 誠司著 大西 由紀  本書の著者は二〇二二年度まで東京大学駒場キャンパスの表象文化論研究室で教鞭を執っていた。隣り合う比較文学比較文化研究室の出身である評者にとっても関わりの深い先生だったので、その最終講義「チョーチョーさんに魅せられて」も会場まで聞きに行った。当初の予定の倍近い三時間半の長丁場になったことは、駒場の最終講義としてはさほど珍しくはない。しかし予定終了時刻も近づいた頃になって、先生の口から、ここまでの話は比較のような切り口だったけれど、ここからは表象らしく、という言葉が出てきたのには驚いた。最終講義という場で、本来の専門ではない学問分野の手法を自覚的に取り入れて、これだけの長さを破綻なく、聞き手を飽きさせずに、話し続けられるものなのか……と驚愕したのである。  全七二〇ページ、膨大な人名索引・関連年表・注・参考文献を除いた本文だけでも五七〇ページを超すこの本は、この最終講義の前半部分――つまり、比較文学的手法の採られた部分――を、さらに膨らませたものである。表象文化論らしく、と言って始まった「ポストオペラ」の議論や、評者にとって印象深かった〈ある晴れた日に〉の韻律分析などは、この大著には収められていない。ポストオペラの話は別途まとめたいという意欲が「あとがき」に示されている。  まだネタがあると分かっていても、プッチーニ《蝶々夫人》(一九〇四年初演)「にまつわるすべてを渉猟した力作!」という、本書の帯の惹句に誇張はないと思わされる。「その起源から複雑な作品成立過程、そして受容のゆくえを追う」とあるのだが、とりわけ本書を特徴づけているのは「受容のゆくえ」の部分で、これが全十五章構成のうち第十章以降の六章分を占めており、とにかく幅広い。  「序章」の書き出しに据えられたのが、映画『大当り三色娘』(一九五七年、東宝)の中で美空ひばりが披露する、《蝶々夫人》をモチーフにした歌と踊りの場面であることからも明らかなように、これまで〝正統な〟日本オペラ史が黙殺してきた大衆娯楽におけるカジュアルな言及が幅広く取り上げられ、しかもその内容が可能な限り調べられ、検討されている。新民謡としての「蝶々さんソング」の流行(一九三〇年代)、宝塚(一九三一年ほか)や松竹(一九三三年)での少女歌劇化、戦後の「帝劇ミュージカルス」(一九五四年)など、これまでどこかでタイトルを耳にしていても内容を調べようとしてこなかった自分を恥じた。  その一方で、有吉佐和子の未刊行の新聞小説『新蝶々夫人』(一九六四~六五年)から、野田秀樹の戯曲『パンドラの鐘』(一九九九年初演)、市原佐都子の戯曲『蝶々夫人』(二〇二一年初演)まで、作品をより深く受容した二次創作の意欲的な大作も多数取り上げられ、先行研究を踏まえた作品論が展開される。戦後の派生作品の多くが、蝶々さんとピンカートンの子孫の世代を登場させており、さらに長崎の街が原爆投下によっても日米衝突の舞台となったことを描いている、という著者の指摘は興味深い。原作オペラの近年の大胆な演出にも、もちろん言及がある(本書の裏表紙に写真が掲げられたカリクスト・ビエイトによる「新宿歌舞伎町」風の読み替え演出など)。  この徹底した渉猟の姿勢は、作品の起源と成立過程を確認する本書の前半部分でも同様に発揮されている。蝶々さんのモデル捜しの試みについて、著者は一歩引いた態度を示しているのだが、それでも第一章を丸々費やして数多くの先行研究を紹介し、批判的に検討している。引用された東洋の旋律の直接の材源を確認する第二章でも、先行研究が網羅的に紹介される。勢い余ってか、ギルバート&サリヴァン《ミカド》(一八八五年初演)など、《蝶々夫人》以外のジャポニスムの舞台作品に関する話題にも、複数の章が充てられる。  特筆しておきたいのは先行研究への目配りの公平さで、たとえばキミヨ・ポヴィルス=オカノの議論のような、明らかな誤謬を含んだものであっても、問題を問題として指摘した上で、評価できる点は評価し、わずかにでも可能性のある説は検討を試みている。オペラ第一幕の〈愛の二重唱〉などに登場する旋律は、フランスの作曲家ブランの《花の香》の引用と考えられていたが、その直接の材源は清朝時代のエロティックな歌詞の俗曲《十八摸》であることが近年明らかになった、と研究史を紹介した上で、もしプッチーニがそれぞれの歌詞の内容まで知っていてこの箇所に引用したのならば、と、曲の解釈に新たな可能性を示している箇所は――著者も認めるとおり、プッチーニにそこまでの意図があったとは考えにくいが――とりわけ面白かった。  本書の中で著者はたびたび、日本の観客のこのオペラに対する相反する態度を指摘する。その日本表象に違和感を覚えつつも、オペラの名曲として受け入れる姿勢。蝶々さんに実在のモデルなどいなかったと確認したい欲望と、自刃によって名誉を晴らそうとする日本人女性はいたと信じたい欲望。  評者もこの二つの態度の間で揺れ動く一人だが、著者もこの呪縛から無縁ではないのだろう、ということは本書のあちこちで察せられて、妙に安心した。象徴的なのがこの本の装幀で、淡い桜色の表紙に据えられたのは、一九五五年の日伊合作のオペラ映画《蝶々夫人》の一コマである。ピンカートンと手を取り合ってこちらを見つめる振袖姿の八千草薫(撮影当時二十三歳)は、十五歳という設定年齢に相応しい可憐さで、しかし眼差しに強い意志を宿す。後方の日本家屋にもおかしなところがない。日本人から見て不自然な描写をできるだけ排除しようとする試みの限界を、著者は本書のあちこちで指摘していて、評者はその都度、それでも頑張った山田耕筰や三浦環の肩を持ちたい気持ちになっていたのだが、著者もこの表紙では〝日本人好み〟の蝶々さん像への愛を吐露しているのである。(おおにし・ゆき=大東文化大学講師・比較文学・翻訳研究)  ★ちょうき・せいじ=東京大学名誉教授・音楽学・表象文化論。音楽学者、音楽評論家。西洋と日本のオペラ全般、および二〇~二一世紀の現代音楽を多角的に研究。著書に『前衛音楽の漂流者たち』(出光音楽賞)『フェッルッチョ・ブゾーニ』(吉田秀和賞)『オペラの20世紀』(芸術選奨文部科学大臣賞)など。一九五八年生。

書籍

書籍名 《蝶々夫人》論
ISBN13 9784393932452
ISBN10 4393932455