ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 384
独自に発展したミュージカル映画
JD ビンセント・ミネリは、年齢はキャプラの世代と離れていません。けれども映画の世界に対して、両者のあいだには、おおよそ二〇年近い隔たりがあります。映画は初期の二〇年において、とてつもない速さで進歩を遂げます。映画を支える技術やテクニックがたった五年で根本から変わってしまうような時代でした。グリフィスからはじまり、そこで培かわれた無声映画のテクニックは、ムルナウの仕事を通じて、ほぼ完成を迎えます。しかしながら一九二九年以降、そうしたテクニックは全てが無効となってしまいます。音が映画の一部になることで、モンタージュというテクニックが失われ、一から映画を考え直さなければいけなくなったのです(その後、モンタージュが再び真剣に考えられるようになるのは、ゴダールの時代です)。つまり、映画が会話や音楽によって成り立つようになり、舞台やミュージカルの演出家が、映画の世界に少しずつ招かれることになります。そうやってミネリは、ミュージカルの振付師として映画の世界に入ってゆきます。
ミネリの映像の力強さや映画に対する向き合い方は、芸術に向き合う態度の違いからも説明することができます。彼にとっての映画は、決して物語ではなかった。彼の映画を、同時代の映画作家の作品と大きく隔てているものとは何か。ミネリは、ミュージカルというジャンルに根差した映画作りをしているのです。ミュージカルとは、根本からしてアメリカ独自の芸術形式です。ヨーロッパのミュージックホールの伝統がアメリカに伝わり、そこから独自に発展することになった表現形式である。多くの場合、物語の筋は非常に単純なものです。なぜなら、ミュージックホールやミュージカルで注目されるのは、それぞれの演者の演目だからです。ダンサーや手品師の演目があり、さらにはちょっとした寸劇も行われます。
ジャン・ルノワールは、そうしたミュージックホールのひとつであるムーラン・ルージュの舞台裏の様子を映画化しました。『フレンチ・カンカン』です。しかしルノワールは、ミネリのようにミュージカル映画を作ることなく、語り手が御伽話を語るかのようにして映画を作っています。
それとは異なる、アメリカのミュージカル映画の特徴があります。映画の流れを遮るような、切り離された時間があるのです。どちらかというと、ミュージックホール本来の姿に似通っている。つまり、映画が純粋な娯楽として存在しているのです。そこでは、それぞれの演目は独立していながらも、ある種の統一感を持ったものとして陳列されています。他の国のミュージカル映画では、そうした形をとることはありません。そもそもミュージカル映画というジャンルは、ハリウッド映画特有であると言ってもいい。アメリカ以外の国において模倣する試みは多々ありましたが、ほとんど成功しませんでした。
フランスにおいては、ジャック・ドゥミが優れた〈ミュージカル〉映画を作っていますが、アメリカのミュージカルとは大きく異なっています。つまり、『シェルブールの雨傘』において、最初から最後まで、対話として歌唱が用いられるように、ミュージカルの要素が物語の一部となっている。『ロシュフォールの恋人たち』は、往年のハリウッドのミュージカル映画へのオマージュですが、演目のシーンが外部から人工的に切り離されるのではなく、物語や街の内部などに自然に入り込んでいる点において、反ミュージカルとも言える作品です。ドゥミの作品には、常にそうした一面が付き纏っています。つまり、幻想と現実のあいだを揺れ動き続けている。映画と現実、希望と現実、他所と此処などなど。ドゥミの時代においては、マックス・オフュリュスやジャン・コクトー、あるいはミネリやドーネンのような映画を作ることができなくなっていました。ヌーヴェルヴァーグの時代以降は、スタジオで人工的な映画を作ることが難しくなっていたのです。そんな時代においても、ドゥミは御伽話のような映画を語り続けようとしました。
〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテーク・ブルゴーニュ/写真は、中央にドゥーシェ、左端にミネリ、右端下にシネマテーク館長のアンリ・ラングロア)