2025/04/11号 3面

ハンナ・アレントの教育理論

ハンナ・アレントの教育理論 樋口 大夢著 橋爪 大輝  Ch・フォルク『アレントの立憲主義』(未邦訳)によれば、アレントはこれまで「偶然」と「始まり」の思想家と見なされてきた。彼はこれに対してその思想における「秩序」や「安定」の契機を捉える必要性を強調する。二つの側面を「革命」と「保守」と言いかえるならば、本書が明らかにするのは、まさしくそれらが「教育」という境位において結び合うことである。 なぜ教育なのか。保守や革命とどう結びつくのか。あまり知られていないかもしれないが、アレントには「教育の危機」(『過去と未来の間』)という哲学的教育論や、公立校における人種統合を論じた「リトルロックの考察」(『責任と判断』)という(悪名高い)論文もある。教育は「政治理論家」アレントにとって重要な論点のひとつだった。 これにはアレントの体系においてそれなりに内在的な理由がある。彼女は、人間が〈生まれる〉という仕方でこの世界に現われる存在であることを重んじるからである。教育は〈新しい〉者として到来する子どもを〈古い〉世界に導き入れる。教育が革命と保守に結びつくのはこの文脈においてである。 本書評では、原著の章立てからやや自由に、革命と保守を軸に本書の議論の整理を試みたい。 まず「革命」から行こう。樋口は革命を子どもという新たな存在がもたらす「始まり」に結びつける。その始まりが世界の「刷新」を引き起こす。本書第二章では、アレントの「自発性」という概念が詳しく分析されることで、この始まりの内的論理が析出される。樋口によれば、彼女は自発性を人間が人間であるために欠かせない力と捉えている。自発性こそ、文字通り人間自らに由来する新しいことを始める力であり、かくて人間の「非自然」性を体現するからだ。自発性は「話し合う」という政治的な「行為」の源泉でもあり、ひいては「評議会」という全体主義に抗する新たな統治形態を生み出すものともなる。 だが、行為に内在するこの自発的な始まりが意味するのは、行為者がどこまでも能動性と決定権を確保したまま、自らの意志のとおりに現実を作り上げていくこと、ではない。なぜなら、第四章が示すようにアレントにとって行為がもたらす始まりは、その始まりによって「受難」する者も行為し、さらなる始まりをもたらすという、予見不可能な過程を意味するからである。それゆえ、行為がもたらすものをあらかじめ制御はできない。それは、行為者は「主権」的ではありえないということを意味する。行為の「非主権」性にこそ、アレント固有の始まりや自由の内実が存するのである。 このように、アレントの理論には至るところに自発性や始まりといった偶発的で革命的な要素が見出され、子どもはその革命性を体現するような存在なのである。だが、だとすればアレントにおいて「保守」とはいったい何を意味するのだろうか。ここに、教師や大人は革命的な子どもにいかにかかわるべきかという問いの答えも存するだろう。 アレントにおいては、普通の「保守派」においてそうであるように、保守や伝統は革命と背反するものではない。樋口は第三章で『革命について』を解釈し、アレントにおける保守が革命からむしろ生気を得ていることを確かめる。たとえば「主流の保守派」(M・ゴードン)にとっては過去と現在の固い結び目である「権威」は、彼女にとっては革命という始まりをさらなる行為によって「増大」させるものである。いわば水をかき混ぜ続けて渦巻きを存在させ続けるように、新たな行為を繰り返すことで革命という最初の始まりを動的に維持することが彼女の考える保守だと言えよう。 ここから「どの子どもの中にもある新しく革命的なもののために教育は保守的でなければならない」(「教育の危機」、本書八五頁などに引用)というアレントの言明も解釈可能である。彼女の求める〈保守〉的な教育とは、子どもをいわゆる保守的なイデオロギーに馴致させることなどではなく、子どもが抱えている自発性や新しさが失われないようにそれらを保守することに他ならない。いわば革新性を保守するという逆説的な保守概念がそこにある。 そのために大人、とりわけ教師は、なにをなすべきなのか。樋口は第五章において、教師もまた行為の非主権的な自由を保持すべく、振る舞うべきであると主張する。教師は子どもの行為にたいする非主権的な受難者でしかありえないかもしれない。だが、そのような子どもの行為への応答責任を果たすことに「教師の権威」があり、また私たちの生きる世界がそのような自発性によって練り上げられてきたことを子どもに伝えることが「教師の資格」の内実をなすのである。 これが、樋口が見出した「アレントの教育理論」の骨子である。アレントの理論的著作の全貌を視野に入れたうえで、その教育理論を描いたことは本書の功績であろう。しかし樋口の解釈に疑問もなくはない。 第一に、樋口の描く教師像は放任的に過ぎないか。子どもの自発性はそれ自体で尊重され、教師はそれを制御することは望ましくないとされる。だが、その場合教育という営みの内実はどこにあるのだろうか。この理論は、子どものいかなる変化もそのままに受容する、極端な「現状肯定」の言い訳にもなりかねなくないか。 第二に、本書の保守はあまりに〝保守〟性に欠け、実質的に進歩主義教育と選ぶところがないのではないか。アレントは、教育が保守的であるべきだと述べたとき、成り立ち上からして〈古い〉世界の慣習や知識を子どもに習得させることも考えていたようにも思うが、本書ではその点はあまり重んじられていないと見受ける。 最後に、本書における自発性の概念は哲学的な正当化を経ておらず、理論的に説明困難なブラックボックスになっていないか。新たなものを創出する力能を子どもにあらかじめ内在させることでは、始まりは説明できないのではないだろうか。著者の見解を問いたいところである。(はしづめ・たいき=山梨県立大学准教授・倫理学)  ★ひぐち・ひろむ=東洋学園大学専任講師・教育哲学・教育思想史。東京大学大学院博士後期課程修了。一九九四年生。

書籍

書籍名 ハンナ・アレントの教育理論
ISBN13 9784326251797
ISBN10 4326251794