2026/05/15号 8面

映画時評・5月(伊藤洋司)

映画時評 5月 伊藤洋司 城定秀夫『名無し』  無差別連続殺人犯の立場から映画を描くというのは大胆な試みだ。多様なものを包摂する社会、誰一人取りこぼされる者のない社会を作ろうと言っても、大抵の人は無差別連続殺人となると顔をしかめ、そんな罪を犯した人間は社会の一員としての資格を持たないと言うからだ。日本国憲法は全ての国民に健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を保障しているが、例外は存在するのだろうか。  城定秀夫監督の『名無し』に登場する少年と少女は、この憲法が届かない地点にいる。忌まわしい呪いに苦しむ少年はさておき、少女が例外である理由は見当たらない。二人は、トンネルか何かの工事が中断されて廃墟と化した場所の奥で、ひっそりと生きる。蠟燭の火に照らされた二人の顔が無言で見つめあう、その切り返しが素晴らしい。少年と少女の顔は、この箇所に限らずどの場面においても魅力的で、他の大人たちの顔を圧倒している。  二人は社会の法の外で生きてきたが、映画はその時期を描かない。少年は警官に発見されるが、名前を聞かれても無言のままだ。警官は少年に導かれて隠れ家に入り、少女も見つける。切り返しが登場するのはこの場面だ。警官は二人を社会に包摂するため児童養護施設に入れ、兄妹ではないが、二人を山田太郎と山田花子と名づける。こうして二人にビオスとしての生、社会的な生が与えられる。  しかし、少年の右手は呪われている。その手が触れると、物体は透明になり、固有名を持つ者、すなわち象徴秩序のなかに主体として認められた者は命を失う。少年はこの呪いにより他者とつながりを持つことができず、夜の養護施設で絶望のあまり右手で左胸に触れる。「消えないよ、消えない。死ねない。大丈夫、私たちはいてもいなくてもおんなじだから」と、少女が言う。警官に名づけられたが、二人は本質的には名無しのままなのだ。少年はさらにビルの屋上から飛び降りようとする。警官が少年を助け、少年は命をとりとめる。だが、彼はその代わりに警官を死なせてしまう。自分を支え続けてくれた人間を。  月日が流れ、二人は大人になる。女は男の赤ん坊を妊娠するが、中絶する。「その子に名前つけたら、その子には一生さわれないよ」と、女は言う。赤ん坊が生まれて名前をつけたら、もうその子に右手でさわれないのだ。「大丈夫、私たちはいてもいなくてもおんなじだから」と、女は少女の頃の言葉を繰り返す。男はほぼ口がきけないのだが、絶望の末、「いや、もう諦めることにするよ。人とつながろうとするのは」と、声を絞り出して言う。そして殺人鬼と化し、人々を次々と襲い出す。  彼を救おうとした警官の死後、ほぼ社会に存在しない者と化していた男は、無差別連続殺人犯となった途端、社会から排除されるべき者として、急に社会的な存在感を示し出す。ただし、『名無し』で問われるのは社会的な問題だけではない。社会に許されないことと、神に赦されないことを混同してはならない。キリスト教、特にプロテスタントでは、どんな凶悪な犯罪を行なっても、人は信仰によって赦される。だが、神の恩寵を拒絶する者だけは赦されない。少年が養護施設で描く空の絵は常に真っ黒だった。そして彼は天に向かって唾を吐く。男は社会的に許されないだけでなく、宗教的にも赦されざる者なのである。  今月は他に、『ハムネット』『鬼の花嫁』などが面白かった。また未公開だが、マティアス・ピニェイロの『あなたは私を焦がす』も良かった。(いとう・ようじ=中央大学教授・フランス文学)