石とザアタルの地
山本 薫編
九螺 ささら
タイトル中の「石とザアタル」とは、パレスチナを象徴する石灰岩の景観とミックススパイスのこと。本書には、一九五〇年代から現代まで、八名の、故郷パレスチナをイスラエルによって奪われた作家の詩と小説が収められている。
パレスチナ問題とは、もともと千年以上にわたってその地に暮らしていたアラブ人(パレスチナ人)と、第二次世界大戦後に国家を建設したユダヤ人(イスラエル人)の間で、土地や権利をめぐって続いている激しい対立と紛争のことで、二〇二三年十月七日以降、イスラエルのパレスチナ・ガザ地区への軍事侵攻により、二〇二五年十月の第一段階の停戦合意に至るまで、大規模な破壊と殺戮が行われ、パレスチナのナクバ(破局的大惨事)は現在も進行中である。
イスラエルとは、パレスチナの南東方荒地に起こり、前千数百年頃エジプトに居住した人々で、モーセに導かれてエジプトを出、カナンの地に至り、前一〇一二年頃イスラエル王国を建設、前九二六年北のイスラエル王国と南のユダ王国とに分裂。後年、ユダヤ人が、シオニズム運動(パレスチナにユダヤ人の国家を再建しようとする民族主義運動)の結果パレスチナに流入し、一九四八年イギリスの委任統治終了とともに建設した共和国がイスラエルである。このイスラエル建国により、七十~八十万のパレスチナ人が故郷を追われ、難民となり、方々に散った。このような、長きにわたる歴史を宿命として背負ったパレスチナ人は、権利や尊厳をどれだけ踏みにじられても絶望せず、言葉で抵抗し、文学に昇華し、民族の自尊心だけは奪われまいと奮闘してきた。パレスチナの国民的詩人である、一九四一年生まれのマフムード・ダルウィーシュは、その詩「身分証明書」で、パレスチナ人としての出自を誇り、イスラエルへの激しい怒りを表明している。「書くがいい/俺はアラブだ(中略)生きるものたちすべてが 怒りをたぎらせるこの土地で(中略)俺は人を憎んだりはしない/誰からも盗んだりはしない/だが……もしも 飢えたなら/簒奪者の肉を喰らってやる/気をつけろ……気をつけろ……俺の飢えに/俺の怒りに」。このような激しい怒りと悲しみを、 ナクバ非体験者が、分かると言うと噓になってしまうだろう。しかし、一九七三年生まれのアーティフ・アブーサイフの小説「宝くじ」は、江戸時代の長屋を舞台にした落語のようで、ユーモアがあり、同じ空気を吸っていると思える。話の内容は、ガザ地区の難民キャンプの横町に住む義理堅い男が、宝くじに当たったという噂が広まり、人が押し寄せ大騒動となるのだが、実際は、宝くじを買ってもいないという話。
一九七四年生まれのイブティサーム・アーズィムの小説「シャーヒーン」は、アボカドを売り歩いていたパレスチナ人青年ガリーブが、鉛筆を売り歩いているパレスチナ人少年シャーヒーンに惹かれて、最後には、金を払って鉛筆を返し、「僕は物乞いじゃない」と拒絶される話なのだが、こちらも、志賀直哉の「小僧の神様」を彷彿とさせ、共感できる。しかし「シャーヒーン」には、ロシア人の子から、「アラブ人だ。汚らわしいアラブ人がやってきた」と言われ、父から「戻って言い返せ」と言われるシーンもある。「『汚らわしいアラブ人』とか『汚らわしいパレスチナ人』とかの罵りは、この国では『おはよう』みたいなもので、もはや何とも感じなかった」。ガリーブは、ナクバ後もイスラエルに留まり、ユダヤ人と共生しているパレスチナ人だ。
一九五〇年生まれのリヤーナ・バドルの小説「石とザアタルの地」は、イスラエルの空爆によって夫を失った妊婦の話。「今さら子どもなんて。でも子どもに何の罪が?(中略)もう一人、人間が誕生する。この世界に出た瞬間から、パレスチナ人として生きることになる人間が」「彼が亡くなった時、私の人生も終わったと感じた。(中略)それでも、なんとかやってみよう」。
祖国という場が奪われても、心の祖国は奪えない。パレスチナ難民たちは、祖国への帰還を祈りつつ、それまで決して挫けぬよう、文学によってイメージの祖国を建国し、そこに魂を住まわせる。(山本薫・岡真理・武田朝子・田浪亜央江・佐藤まな訳)(くら・ささら=絵本文作家・歌人)
(ファドワ・トゥカーン/ガッサーン・カナファーニー/マフムード・ダルウィーシュ/リヤーナ・バドル/アーティフ・アブーサイフ/イブティサーム・アーズィム/アダニーヤ・シブリー/スヘイル・ハンマード著)
★やまもと・かおる=慶應義塾大学准教授・アラビア語・アラブ文学。
書籍
| 書籍名 | 石とザアタルの地 |
| ISBN13 | 9784774408873 |
| ISBN10 | 4774408875 |
