2026/02/27号 5面

「映画とは感性によって見るものである」(ジャン・ドゥーシェ氏に聞く)(聞き手=久保宏樹)

ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 426 映画とは感性によって見るものである  JD 映画の編集と空間の関係について、簡単に説明しましょう。私たちの目の前のテーブルの上には今、ワイングラスとワインの瓶が置いてあります。目の前で言葉を発しながら、私がワイングラスを手に取りワインを一口飲んだ後、グラスをテーブルに戻します。その一連の動きは、目の前にいる人に認知されます。私たちの頭の中では、テーブルの上にあるグラスとワインボトル、目の前で誰かの手に渡り、また元の位置に戻されるワイングラスという、その位置関係と動きが、無意識に理解されるのです。  しかし、仮に別のことを想像してみましょう。私はまた同じ動きをします。ワイングラスを手に取り、ワインを一口飲み、元の位置に戻す。あなたの前にはワイングラスがあり、テーブルの反対側にはワインボトルがある。しかし、ここからは想像の範疇になりますが、私がグラスを持ち上げる一連の動きをしている最中に、ワインボトルがどこか別の場所に移動されたとしましょう。その動きに、私たちが気づいていなかったのならば、私たちの脳は、空間の中の位置関係を把握できません。ボトルがあるべき場所からなくなってしまっている。  そうした現象は、映画の編集でもしばしば起こります。「繫ぎ間違い」という状態です。前後の映像で、物の位置や人物の位置が変わってしまえば、映像の繫がりの失敗となります。原因は、撮影現場において複数のショットを撮影した際に、人物の位置やものの位置を確認しなかったことに由来します。本当に優れたカメラマンは、テイクごとのフレーミングを、測量技師の如く、詳細に記憶しています。映像の中の配置が正確に行われているか、光源は正しい位置にあるか、光のニュアンスが変っていないかなどなど。しかし、それでもちょっとした問題が後から浮上してくることがあります。つまり、「繫ぎ間違い」は編集の段階での問題ではなく、撮影の段階における問題なのです。撮影段階において、カメラのフレームを通じて、眼が正しいと感じたものに対して、後から別の映像が繫ぎ合わされると、違和感が生み出されるのです。  それはまさしく、今言ったワイングラスとボトルの問題と同じです。眼が目前で生じる動きだけを追っている時には、違和感を覚えることはない。しかし、別のところに目を向けると、違いに気づく。それは、すでに眼の問題ではなく、脳の問題なのです。映画の編集が難しいのは、その問題に由来します。映画の編集を成り立たせるのが、眼の問題であり脳の問題でもあるからです。私が語っているのは、別に難しいことではありません。とても単純なことです。映画は、写真と映写機、つまり視覚と脳の錯覚によって成り立っているということです。  映画監督の仕事は、それらを同時に考えることで成り立っています。ただ映像を撮影しているだけであっても、同時に、それらをどのようにして繫ぎ合わせるかを考えなければいけない。複数のカットを組み合わせる複雑なシーンであっても、単純な切り返しの映像であっても同じことです。前後する映像で、背景のセットが変わることがあってはいけません。話している人間の向いている方向が、脈絡なく変わることがあってもいけない。一方の人間が右側に向かって話しているならば、もう一方の人間は左側に向かって話すようにしなければいけない。それが、イマジナリーラインの問題です。多くの場合、対話のシーンにおいては、イマジナリーラインの手前でカメラは一八〇度まで動かすことができます。そして、対話のシーンを撮るならば、発話者の顔だけを写すのではなく、対話者が同時に映るように撮影します。そうすることで、空間内における人物の位置関係が自然と理解できるからです。  映画という芸術に関して、非常に興味深いことがあります。私たちのように専門的な知識がある人間ではなくとも、一般の観客でも、映像の中で生じる違和感にはすぐ気づきます。それが、映画は感性によって見ることが大事であり、知性で見るものではないと、私が常々主張している理由のひとつです。     〈次号へつづく〉 (聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)