2026/03/20号 5面

生きとるわ

生きとるわ 又吉 直樹著 陣野 俊史  金を借りる。友人から借りる。借りは返すべきだが、返すことを考えない者もいる。かくて貸した金が返らない。そいつに連絡して、返済を求める。だが彼は自身の窮状を訴えて、返済に応じない。のみならず、貸した人物に奇妙な理屈を話しつづけ、結果的に追加の借金を認めさせる。膨れ上がっていく借金。なぜか困窮するのは貸し手の側であり、その人間に可能な限界を超えて金を貸すとき、待っているのは破綻でしかない。それはわかっている。破綻を回避するためには犯罪をおかしても金を準備するしかない。転落する。  主人公の「僕」は岡田善人という名の会計士。それなりの年収と生活水準がある。既婚。岡田には高校時代からの友人である大倉、広瀬、そして横井がいる。高校時代、彼らは四人で「日本映画研究部」という、運動系の部活の縦社会ぶりが嫌で自分たちで勝手に作った部活動の繫がりがある。だが横井はそのときからすでに一緒に活動しなかったくせに、映画のエンドロールに自分一人で製作したかのようなクレジットを入れる人物だった。狡猾で、人を出し抜くのが好きで、肝心な場面には姿を見せず、おいしいところだけを独り占めにする友だち。  と、いま評者は横井のキャラを形容してみたのだが、おそらくそうした言葉は横井を捉えきれていない。この小説の主人公はじつは横井であり、現実にいそうでじつはなかなかいそうにない人物であり、あるいは、現実にはいなさそうでじつは実在しそうな人物でもある。リアルな世界と非リアルな世界の、ギリギリの境界にいる人物だ。本作の成否は、まずもって横井の造型にかかっていると言っても過言ではない。たとえば――。友だちの三人から借りた横井の借金総額がまだ「四一〇万」で、横井は、大倉には百万、岡田に三百万を借りており、広瀬に十万を借りている。四人でご飯を食べている席で広瀬が十万を返済するよう求めると、こう逆ギレする。「おまえ、本来なら十万しか貸してない奴にこんな言い方するか? せぇへんやろ? おまえどっかで大倉さんと岡田さんの貸してるお金の力を借りて、俺に文句言うてんねん。俺はそれだけの借金したから、四百十万円分の借金してることに見合った怒られかたするのは仕方ないと思ってるし、当然受け入れる。大倉さん、岡田さんのお二人には徹底的に文句言う権利がある。でも、おまえは十万しか貸してないくせに、四百十万円借りてる奴に対してのテンションでキレてきてんねん。だれの金でキレてんのか自覚してるんか? 十万程度やったら、『そろそろ返して貰ってもいいかな?』って、お伺い立てるくらいが妥当やろ!」  「さん」づけを含め、無茶苦茶である。だが横井が話すと誰もがつねに彼の非論理の論理に巻き込まれる。薄っぺらな、情緒に訴える話につい耳を傾ける。小説を読んでいる人間からすれば、この横井の内面が知りたい。だが、又吉直樹は横井の内面を描かない。なぜなら横井に内面などないからだ。白々とした無思考の領野が広がっているだけなのだ、きっと。  したがって主人公を含め、横井に接した者たちは、自分の内面に問題がある、と逆に考え込む。岡田は、香織という名のキャバ嬢と不倫をし(背後で横井が動いている)、家庭を壊す。大倉は陰謀論にハマり、横井への憎悪を滾らせながら、逮捕される。破滅が音をたてて近づく。  途中、クライムノベルっぽい箇所がある。川上未映子の『黄色い家』を思わせたりもする。しかしこの小説には本質的な軽みがある。最後の最後のラストもそう(詳細は書かない)。個人的にツボって大笑いしたのは、岡田が横井の実家に直談判に赴くと、いないはずの横井がいて、当人はすぐに姿をくらますのだが、残された父親が岡田の相手をする場面。しばらく世間話をしたあと、話もないので帰ろうとする岡田に、横井の父親はギターで一曲。ミシェル・ポルナレフの「シェリーに口づけ」を歌う。意味なんかない。「シェリーに口づけ」はただ贈与されるだけだ。「トゥトゥトゥ・マシェリ・マシェリ」のフランス語が本書を読み終えてもなお、私の耳の内側に響き渡って離れない。(じんの・としふみ=文芸評論家・フランス文学者)  ★またよし・なおき=芸人・作家。デビュー作『火花』で芥川賞受賞。著書に『劇場』『人間』『東京百景』『月と散文』など。一九八〇年生。

書籍

書籍名 生きとるわ
ISBN13 9784163920603
ISBN10 4163920609