一歩前進、二歩後退
絓 秀実著
山口 直孝
本書が問うのは、文学者の想像力の貧しさである。書き下ろしの「天皇ごっこ――一九四七年の憲法、その拘束」の題名は、大江健三郎『遅れてきた青年』と江藤淳『一九四六年憲法 その拘束』とに由来する。アジア太平洋戦争の敗北によって日本は、政体の変更を余儀なくされた。アメリカの提示した憲法草案の「people」を「国民」と翻訳することで、民主主義と天皇制とのあいまいな共存が図られる。革命による「王殺し」をなしえないまま、高度経済成長下の繁栄を享受できなかった有志の文学者たち(例えば大江や三島由紀夫)は、主権者たろうとして、くり返し権力委譲の場に立ち戻ろうとする。
しかし、元々なかった行動をあったと見なすのは、トラウマを捏造することであり、規範を逸脱するような狂気や愚行を演じたとしても、試みは失敗するしかない。外部や始原に可能性を求めた大江は、先祖崇拝によって天皇制を合理化する柳田国男を超えられず、空虚でありつつ権威が宿る存在として天皇を想定した三島も折口信夫の想像を反転させるにとどまった。絓は、神話研究から現代政治論に至るまで周到に目配りし、明快な見取り図を示しながら、作品の急所に迫っていく。
革命間近と考えたマルクス主義の文学者たちも、時代に応接できなかった、と絓は考える。本書では「転向」が広義に用いられている。弾圧による思想の放棄だけでなく、大衆の消費行動への迎合や科学の進歩による世界観の変更も「転向」に含まれ、柳田の「常民」や「妹の力」を参照する中野重治や大西巨人が疑問視される。資本主義に柔軟に対応し、延命する天皇制に対して、彼らの言説が痛打となっていないことが理由であろう。ラディカル・フェミニズムやケアの倫理は生政治に包摂される恐れを孕んでおり、西部邁や福田和也ら保守思想家の信条もサブカルチャーとして消費され、故人となると速やかに忘れ去られてしまう。ロマン的想像力は、体制の補完装置として機能し、敗戦が革命であった、あるいは大嘗祭において天皇が秘儀を行うなどの見立ては、シニシズムに帰着する。
書名は、同題のレーニンの著述に踏まえる。ロシア社会民主労働党第二回大会(一九〇三年)でレーニンは、プロレタリアートの連帯を阻害するものとして、党内の日和見主義的傾向を批判した。組織強化のための論争を、絓は運動の後退局面で実践する。「「左翼」が論理を放棄してしまったら左翼ではない」(二八五ページ)という立場から、象徴天皇制下の文学者の俗情をあぶり出す作業は、孤独を強いられるが、現状打破には欠かせない手続きであろう。
自由主義、民主主義の「できちゃった結婚」(五五ページ、二八三ページ)という現状をいかに打破するか。一つの要件は、空虚さに耐えることであろう。消息通である絓は、豊富な知識に基づき「これら親しい三人(松本烝治、宮沢俊義、柳田国男の三人――引用者注)が、憲法改正時の各々の現場にあった時、何らかの関係がなかったと考えるほうが不自然であろう」(一四五ページ)といった推理を行うことが少なくない。しかし言うまでもなく、近しさは、直ちに影響を受けることを意味しない。隣接関係への過剰な意味づけは、批判対象である偽史的想像力を呼び込む危うさを孕んでいる。例えば、大西巨人における齋藤史、村上一郎、柳田の受容について、共感のみが注目されていることに不審が残った。フロイト『トーテムとタブー』に依拠した「王殺し」についても、それが本当に不可避なものであるか、さらに検討されてよい。
本書にも、『絓秀実コレクション』(blueprint、二〇二三年六月、全二巻)にも収録されなかった「花田清輝の「党」」(『群像』二〇二二年三月)において、絓は、さまざまな限界を指摘しつつ、前衛党による運動の発想を核とする花田の「晩年の思想」を積極的に評価していた。本書は、運動体をいかに創設していくかについての言説を欠く。虚無から始まる革命について、絓の「晩年の思想」の展開を注視したい。(やまぐち・ただよし=二松学舎大学教授・近代日本語文芸)
★すが・ひでみ=文芸評論家。著書に『天皇制の隠語』『アナキスト民俗学』(共著)『革命的な、あまりに革命的な』『1968年』『反原発の思想史』『対論1968』(共著)『全共闘晩期』(共編著)『絓秀実コレクション』全二巻など。一九四九年生。
書籍
| 書籍名 | 一歩前進、二歩後退 |
| ISBN13 | 9784065408407 |
| ISBN10 | 4065408407 |
