鼎談=絓 秀実・中島 一夫・梶尾 文武
<三島由紀夫のパレーシア>
三島由紀夫生誕一〇〇年/「文化防衛論」における「言論の自由」について考える
三島由紀夫生誕一〇〇年、没後五五年。いわずとしれた国民的作家の遺した創作の数々は、いまだに議論の対象になり、作家、評論家、研究者とわず盛んに語られる。
今回、文芸評論家の絓秀実氏の発案で、「文化防衛論」における「言論の自由」について考えるべく、絓氏、近畿大学教授の中島一夫氏、神戸大学大学院准教授の梶尾文武氏による鼎談を、憂国忌を目前に控えた一一月一六日に実施した。(編集部)
絓 鼎談の企図をお話しします。「群像」11月号のエッセイでも書きましたが、今年の8月4日、埼玉県鶴ヶ島市議会が、反ヘイト活動をしている女性市議会議員に対し、鶴ヶ島市議会議員の肩書を付したSNSでの発言自粛を求め、事実上の全会一致で決議されました。これは、恐らく前代未聞の「言論の自由」の破壊ですが、同時に、民主的なプロセスを経た採択なのです。つまり、「民主主義の破壊」ではなく、民主主義が、この決議をもたらしたということが重要です。そこで私たちはこの決議の白紙撤回を求めて〝市民運動〟をはじめました。
運動の手始めに署名呼びかけのための声明を出し、その中で三島由紀夫の「文化防衛論」(68年)から「「左右の全体主義」を回避しうる唯一の方途は、「言論の自由」」だという一節を引用しました。
この引用は、私の考える左派はもちろん、「右翼」の一水会などからは支持されましたが、「九条の会」周りの戦後民主主義的な市民派からの評判がすこぶる悪かった。そういうこともあり、三島の「言論の自由」擁護は現代的にいかに捉えられるのかを、三島をシャープに論じ、研究しているお二人と議論したく思ったのです。
私は以前にも何度か、「文化防衛論」の「言論の自由」問題について書いたことがあり、そのことを巡って、三島由紀夫は深沢七郎の「風流夢譚」(60年)を肯定しているはずだ、と主張してきました。
本題に入る前に、「風流夢譚」問題について梶尾さんの見解を聞いてみたいのですが。
梶尾 三島が「文化防衛論」で語った「みやび」なるものは、テロリズムに通じるという意味で、深沢的「風流」そのものではないでしょうか。「風流夢譚」の『中央公論』への掲載の経緯は、三島による推薦があったからだと言われています。しかし、三島は中央公論社への右翼の襲撃の後にあえて、「風流夢譚」の推薦者ではないという声明文を出します。また、同じ中央公論社の『小説中央公論』に「憂国」(61年)を掲載したことについては、編集者の井出孫六が言うように、その「毒」を薄める狙いがあったようです。
絓 あれは毒を薄めるものだった?
梶尾 実際、「風流夢譚」の隣に並べてみると、この三島作品のこれみよがしのエロティシズムと殉死の美学は、笑いと諧謔に満ちた深沢作品の毒を薄めるものだろうとは思います。そもそも三島は、「楢山節考」(56年)以来、深沢を発見しデビューさせたことを誇っていたわけですし、その後も深沢を支援し続けたと見るのが正しいでしょう。しかし、「風流夢譚」事件が起き、右翼の暴力に震撼させられたことで三島は腰が引け、深沢との関係を隠蔽してしまう。大江も同様ですが、三島が事件から受けた恐怖は深刻なものだったようです。そしてそれこそが、三島が右翼に転身する引き金になったという見方もできます。
絓 今年は三島の生誕100年、5年前が没後50年で、この間に膨大な三島論が出ましたが、晩年の決定的なマニュフェストたる「文化防衛論」の「言論の自由」擁護をめぐる論は寡聞にして知りません。三島における核心的なものだと思うのですが、三島研究の中で真面目に論じられたことはあるのでしょうか?
梶尾 いや、それはちょっと疑問です。むしろ絓さんが「文化防衛論」における「言論の自由」の問題の重要性を最初におっしゃったのではないかと思います。
絓 あの発言について、三島の筆が滑ったと捉えていた人もいましたが……。
梶尾 それはないと思います。三島は「文化防衛論」では、日本国憲法の論理を逆手に取るようにして反革命の論理を組み立てているわけですが、その際にいわば最上位の審級に据えられるのが「言論の自由」です。
絓 私もあれは、三島が考え抜いて、これしかないと出した発言だと理解していて、三島もそう書いている。
中島さんは三島の「言論の自由」擁護の部分をどのように読まれますか。
中島 今のお二人のやり取りにもあるように、一見、右寄りのところに基軸を置いた上での発言だったように見えます。しかし、私はそれ以上に、あの発言からはチェコ事件からの影響を強く感じる。あの時代、つまり68年の三島の論考や言説は軒並みチェコ事件に触発されていることが顕著に表れています。
当時のチェコスロヴァキアは共産主義下において、民主主義ないしは言論の自由をなんとか確保、担保できないかもがいていたものの、ソ連からの侵攻を受け、その動きは圧殺された。三島は、そういった国際情勢の文脈の中で、中国を含めた東側諸国における言論の自由というものを深く考えざるをえなくなり、そこから国家=政治の保護=監視下の「言論の自由」を考えるほかなくなった。その構造は、現在のPC全盛時代にもつながる。そういった思索のひとつの形として結実したのが「文化防衛論」だったのではないかと私は見ています。
絓 チェコ事件の前年の67年に、三島は文化大革命に関する声明を出しましたよね。
梶尾 三島のほかに、安部公房、川端康成、石川淳が声明に名を連ねています。
絓 これは左、右関係なく、文革で作家が弾圧されていたことに端を発する声明ですが、当時の私はこの声明を見て、「石川淳も入っているのか。安部公房もやっぱり転向していたんだな」程度の認識でした。しかし、今になってみれば、この声明を三島主導で出した意義は改めて感じます。
絓 そもそも三島にとって「言論の自由」は何だったのか。私から仮説を出した後に、お二人にご意見をうかがいます。
先日、気鋭のフーコー研究者の柵瀨宏平さんと20数年ぶりに会う機会がありました。彼はラカン研究から出発していて、ラカンとフーコーという非和解的と捉えられがちな両者の思想に接点を見出しています。つまり、ラカンの「ジュイサンス(享楽)」とフーコー晩年の「パレーシア(真実を言う)」の接点で、パレーシアは、ラカンのいわゆる「現実界」と接するということに重なる、と。そのことは『フーコー研究』(小泉義之・立木康介編、岩波書店)の中でも詳述しています。
例えば、フーコーはイランのホメイニ革命(79年)を支持しましたが、柵瀨さんによれば、これこそがフーコーのパレーシアなのだという。要するに、真実は必ずしも正義、「政治的に正しい」ことではないけれども、その真実を言わざるをえない場面があるということでしょう。
通説に従って、古代ギリシアのパレーシアが、「言論の自由」という近代の、重要な制度的フィクションの淵源にあるとするなら、三島が言った「言論の自由」というのはパレーシアを担保することだったというふうに言い換えられるのではないか。
いずれにしても、三島とパレーシアを結びつける議論は、単に三島の嗜好性を論じる際にバタイユやラカンの「男根性」を参照して論じるのとは一線を画して捉えたいのですが、梶尾さんなら三島とパレーシアの関係をどのように理解されますか?
梶尾 三島が反革命の論理を構成する際に「言論の自由」とともに現れてくるのが、「文化概念としての天皇」という概念で、そこでは「みやび」が一つのキーワードになります。もしかしたら、この「みやび」がパレーシア的なものとも関わってくるかもしれません。言論のリミットとして立ち現れてくるテロリズムさえも受け容れるような「自由」こそが三島がいう「みやび」の核心です。
三島の発想の中には古典主義的なものが根強くあります。三島は『古今集』の世界について「全体を損ねるような混沌を予め排除するところに成り立つ全体」であると述べていますが、それはもはや全体とは言えませんよね。この発想が「文化防衛論」の中では、日本に民族問題は存在しない、むしろ民族問題は分離されざる「日本」という全体に分離の契機を持ち込むものだ、という論旨に最も端的に表れている。民族的異質性つまりはアジアを排除するところに見出された全体が「日本」と呼ばれているわけです。ここが「文化防衛論」のアキレス腱になっています。
その上で、守るべき文化の全体性を担保するものが「言論の自由」だと三島は言います。ただし橋川文三からは、三島の「言論の自由」には、「責任」という概念が欠落しているんじゃないかと指摘されています。
絓 パレーシアは「責任」をこえる。これは、ある意味ではトランプ以後の現代の右派に都合が良い話でもあるわけですね。橋川さんに限らず、「言論の自由」の議論の際には必ず「責任」が、特にリベラル派から問われますが。
梶尾 そうですね。三島がいう「言論の自由」は、「責任」と対になるような「自由」ではなく、むしろ言論の底を抜くような無責任あるいは無秩序につながってゆく「自由」として捉えられます。そうした「自由」をもたらすのが「天皇」です。橋川への反論のなかで、三島は「言論の自由の至りつく文化的無秩序と、美的テロリズムの内包するアナキズムの接点を、天皇において見出」すと述べています。
絓 なるほど。中島さんはどうですか?
中島 「言論の自由」は「擬制」(フィクション)であるゆえに、「責任」をこえた「パレーシア」や「享楽」の次元にあるのではないかという指摘ですが、実は早稲田大学のティーチ・イン(68年)で三島は明確に「享楽」と言っていますから少々驚きました。三島のニュアンスについてはいろいろ議論があるでしょうが、ここでの発言のみ見ていくなら、「あくまで享楽でしかない」という次元で言っている。
三島にとって「言論の自由」を推し進めていった到達点としてサドの問題が浮上してきます。要するに、カントが反転してサドになるという発想ですが、人間性を解放する完全な「言論の自由」なんてものはないのだから、その手前で我々は「言論の自由」を享楽しているにすぎない。その享楽「にすぎない」部分をいかに担保するか。この発想がやがて「文化概念としての天皇」にもつながっていく。全体性には絶対に行きつかない無限空間を理論的に担保しておいて、その中でいかに「言論の自由」を享楽するか。この点に三島は骨を砕いていたような気がします。
絓 「文化概念としての天皇」の中の「全体性」という概念は今となってみれば非常にわかりにくい。しかし、当時は右も左も割と普通に肯定的に「全体」という言葉を使って、その上で全体主義を批判していたものです。
中島 三島が言う全体性というのは、あくまで文化的なものだということではないでしょうか。三島の言う天皇は政治的なものではない。つまり、権力ではない。権力は相手を抑圧するものだけれど、自分の言う天皇は権力でないから何も抑圧しないのだ、と。
このように、天皇はあくまで政治的な概念ではないということを強調するために、文化概念とか文化的な全体性と盛んに言ったのだと思います。まさに絓さんがおっしゃった、政治的な全体主義に対する批判であり、あくまで全体主義否定のための「全体性」という概念だったのではないか。
絓 三島が「天皇」ということを直接に言い出すのは61年の「憂国」以降?
梶尾 そうですね。『鏡子の家』(59年)前後からです。
絓 言い出すようになるきっかけは何かあったんですか? そもそも、どうして三島の近傍から「風流夢譚」が出てきて、潜在的に、ずっとこだわっていたのかが非常に謎です。第一、三島は天皇制の問題が浮上した60年安保にはあまり興味がなかった。当時の左翼にしても「大衆天皇制」(松下圭一)がすでに定着していたから、60年安保で天皇制の問題が出てくるとは想定していなかった。
梶尾 一つには、60年前後の世代論的な動きがかなり大きく影響していたのかもしれません。例えば、奥野健男や橋川文三、井上光晴といった人たちの戦争体験論の影響です。
絓 いわゆる戦中派といわれる世代ですね。加えて、吉本(隆明)さんや村上(一郎)さんがいる。
梶尾 その世代の人たちが、安保闘争前後に戦争体験と天皇の意味を言説化していった。彼らと同世代の三島もそういった言説を、ある種のシンパシーをもって受け止めたところがあったのではないか。ただし、それはあくまで間接的な要因であって、直接的に何が三島をして天皇に接近させたかは難しい問題です。
絓 その世代の人たちは、当時出現した新左翼にシンパシーを持っているというようなことを言いながらも、妙に天皇制体験にこだわっていたから、安保世代の目からは奇妙に映っていたと思う。新左翼は天皇制に対して何も興味がなかった。
50年代の終わり頃にかけて「戦中派」の間から急に天皇制の問題が世代論的に浮上してきたのは、どう考えればいいのか。
梶尾 一つには戦後民主主義に対するカウンターでしょう。
絓 大江健三郎だって50年代には天皇制のことを言っていますよね。
梶尾 小説作品に右翼が登場するということで言えば、むしろ『われらの時代』(59年)の大江の方が三島よりも早いわけで、大江の「ファシスト」的相貌に三島も共鳴している。
絓 そういう意味で、三島と大江はセットで考えなければならないと思います。戦中派に対する世代的な共感のようなものが三島にはたしかにあった。しかし、それ以上に三島が天皇制のことを言い出すようになったのは、ある種ライバル関係にあった大江を強く意識していたからではないか。
しかし、小森陽一の大江論『歴史認識と小説』(講談社、2002年)以降でしょうか、大江は三島と切り離されて、表向きは単なる戦後民主主義者の「いい人」になり、事実、小森さんは大江を巻き込んで「九条の会」(2004年)の事務局長に収まるわけです。冒頭述べたように、市民派リベラルの人たちが、三島のいう「言論の自由」発言を闇雲に否定するのも当然ですが。
中島 大江との関係はすごく重要です。同時に、三島の天皇制論については、私は江藤淳との共通性も考えてみたい。
江藤の中には、講座派的に大衆天皇制や開かれた皇室と言った時に、相対主義的な共和制の地平がなし崩し的に広がってしまうことへの怯えのようなものがあった。江藤のその発想は、フランス革命に怯えたヘーゲルがあえてプロイセンの君主制を肯定して、共和制の広がりに蓋をしようとする所作と似たものを感じています。そして、三島も共和制断固反対の立場を取っていた。
三島も江藤も、大衆天皇制論みたいなものから共和制に向かおうとする動きを無気味に感じ取っていた。だから彼らは天皇主義というより、大衆天皇制へのカウンターとして天皇がリアルに浮上してきたのであり、それが「文化概念としての天皇」として表れたのではないか。
絓 三島は大江の小説の才能に嫉妬していましたよね。
梶尾 それは間違いなくそうだと思います。
絓 お二人にお聞きしたいのだけれど、三島の小説って下手じゃない?少なくとも大江に比べたらそう言わざるをえない。
三島に対する評価として、批評が先行している作家だとよく言われますが、私も順位付けするなら批評、戯曲、小説の順ではないかと思っています。このあたりについて、中島さんはどういった印象をお持ちですか?
中島 全く同感です。小説はちょっと読めないところがある。昔、浅田(彰)さんが、全部が設計図通りで揺らぎがないのだから、「三島は小説を書いたことがない」と言っていたくらいです(『天使が通る』、88年)。当の三島本人も、「自分の書く小説はなよなよだ」、つまりはあえての「みやび」だ、と。
三島は「言論の自由」のベースを「暗殺」に置いていた。自分の政治信条と相手の政治信条が激突するところでのみ言論とその自由を考えていた。だから、潜在的に「暗殺」が胚胎するところでしか「言論の自由」は語れない。けれど「暗殺」をむやみに顕在化させるわけにはいかないから、「暗殺」を回避する必要悪としての政治が発動する。したがって政治は技術の問題で、民主主義論もその発想に立脚しているから、三島にとっての民主主義に理想などなく全て技術なんです。
その三島の「暗殺」という評価軸の末端に位置するのが文化であり、文学である。三島にとって小説を書く自由は、「一杯のお茶を飲む自由」と同列でした。この発言は晩年の古林尚との対談で出ています。このように、文学は「あえて享楽にふける」という「言論の自由」の行使だった。戯曲は上演という出来事性も含めてもう少し「暗殺」寄りに位置づけていたのかもしれません。
絓 梶尾さんはどうですか?
梶尾 三島の小説は、小説のかたちで行われた批評であり、文学論であるところに可能性があるのではないか。私は三島の小説のなかでも、「文学」あるいは「言葉」についての洞察に目を向けたいと思っています。もちろん一般に、外部の雑駁な異物なりノイズが入ってきて初めて小説になるという考え方からすると、あらかじめ混沌を排除して実現される全体というモデルを三島の小説は実現してしまっていますので、これは小説ではないという評価もわからなくはない。ところが、『豊饒の海』の後半、『暁の寺』(70年)の後半から『天人五衰』(71年)に至るプロセスで、三島は小説的な混沌に触れようとしている。ただ、本人はそれと相即して自決に向かってゆきます。
絓 異物を排除するという書き方は、梶尾さんもおっしゃった「文化防衛論」での民族問題に触れようとしない態度にもつながってくるわけだけれど、一方で大杉重男は『日本人の条件』(書肆子午線)収録の論考で、三島が民族問題に触れた決定的な契機が68年の金嬉老事件だったと指摘している。そのあたりはどう見ますか?
梶尾 大杉さんの「「文化防衛論」と「人質」の論理」はとても面白く読みましたが、三島の小説のレベルでは民族問題は現れてこないと思います。大江なら『叫び声』(63年)のような小説のなかで在日の問題にアプローチしているわけですが、これに類するような試みは三島の小説には見られません。
絓 中島さんは三島の民族問題をどう捉えますか?
中島 民族問題に触れてしまうと疎外論になる。このことが三島にとってはアキレス腱だったのだろうと思います。そして、三島にとっての究極の疎外が「文化概念としての天皇」だった。これは疎外論のさらに外にあるものを名指そうとした概念です。三島には疎外的なものに触れまい(触れられない)とする、禁欲的なところがあったような気がします。
絓 三島が民族問題に触れようとしないのは、彼の68年に対する関心と奇妙な無関心の共存からもうかがえます。三島の東大全共闘への対応は誠実だったけれども、そもそも全学連と全共闘の区別さえついていなかった。それにも関わらず、東大安田講堂攻防戦における学生側を弁護して、みんなを驚かせたことがありました。
ここで考えてみたいのは、拙著『1968年』(筑摩書房)で触れた戦後アナキズム・新左翼運動の「怪人」山口健二の存在です。山口健二は当時ML派の政治局員で、外から安田講堂攻防戦を指導した人物と言われる。三島はそれ以前に山口健二が関わった奇妙な殺人事件をモデルにした「親切な機械」(55年)を書いていましたので、そう考えると、前述の学生側への評価の背景には、山口健二の存在へのシンパシーが作用していただろうと想像できる。
何より、山口健二は敗戦後まで満州や朝鮮を流浪していたし、民族問題に強い関心があったはずだ。しかし、三島は全共闘によって民族問題が萌芽したという契機を把握しなかったし、自決と同年の「七・七華青闘告発」だって知らないままでした。まさか、自分が小説のモデルにした人のことを忘れてしまったなんてことはないだろうから、中島さんが言うように疎外論に回帰してしまうことを嫌って、あえて民族問題に触れなかったのかもしれませんね。
梶尾 そもそも、三島の認識の中にはアジアが入ってきません。アジアが完全に無意識化されている。それが意識化されてくるのは、ようやく『豊饒の海』の後半にいたってのことです。そういう意味で、三島の小説世界は「日本」という閉ざされた全体のなかで均質化されていると言わざるをえない。
安田講堂攻防戦との関係でいうと、丸山眞男の研究室が荒らされたときに三島は快哉を叫ぶわけですが、その背景には、敗戦を欣喜雀躍として迎えた東大法学部のエリートたちへの不信感があったんだろうと思います。
梶尾 絓さんは、90年代から筒井康隆の断筆問題等を通じて、「表現の自由」に関する問題に取り組んでこられて、そこから「二重の闘争」という議論を展開しておられます。つまり、表現の自由を盾に取った差別表現に対しての言論闘争を行いつつ、しかしあくまで表現の自由は維持するというスタンスをとるわけです。その問題意識は現在も持続しているのでしょうか?
絓 今はいわゆるキャンセルカルチャーの問題が左右から一層取り沙汰されるから、ますますそうなってきています。このキャンセルカルチャーは、文学史的には、戦前の部落解放運動の側が島崎藤村の『破戒』(1906年)を糾弾し、戦後の一時まで絶版になった問題まで遡れます。キャンセルしたい気持ちはわからないではないですが、このような反差別は、必ずしもパレーシアとは言えません。『破戒』はともかく、われわれはセリーヌを――大江でさえ――評価せざるをえないわけでしょう。
政治的に正しいから差別を批判するわけです。しかしそれは、相手に断筆を求めるとか、作品をなきものにする、ということではありません。事実、私は90年代の筒井康隆氏との「論争」の際に、彼に断筆を求めたことなどなく、彼が非を認めれば私は納得する、というだけの話です。ところが、私が指摘した『文学部唯野教授』(岩波書店)はいまだに刊行されているのだから、他のことも含め、筒井氏の差別表現は生きたままです。キャンセルカルチャーなど、資本の都合で発動されもするし、無視もされるのです。ところが、他方でキャンセルカルチャーは風靡しているわけで、今の状況は非常に奇怪です。おそらく、三島が生きていたら同じような感覚を持ったんじゃないかな。
梶尾 三島のいわゆる「言論の自由」も二重性を持っていたはずです。つまり三島は、「言論の自由」が全体主義を回避する方途であると同時に、全体主義そのものを帰結する動因にもなりうると認識していたのではないか。中島さんは『アフター・リアリズム』(書肆子午線)の中で、「言論の自由」を突き詰めたところに現れるアナキズムが全体主義に反転してしまうことへの三島の危惧に、作品解釈を通して注目しておられます。
中島 『サド侯爵夫人』ですね。
梶尾 そういった意味での言論・表現の自由と、今日ここまで議論してきた「言論の自由」は、ちょっとレベルが違う気がします。その点、中島さんにご意見をお伺いしたいです。
中島 まさに三島は、「言論の自由」ないしはあらゆる自由と言っていいのだけれど、人間性の解放の方に自由を突き詰めていった時に、サドのように反転してしまうことにリアリティを持っていた。その立場の三島は、むしろ言論の自由否定と言ってもいいニュアンスで発言します。ところが、「文化概念としての天皇」を持ち出すときは、議会制民主主義的な言論の自由をどこかで確保しておくしかない、というような言い方をします。
要するに、三島はポジティブな自由と、ネガティブな自由という二重性を使い分けるところがあった。というより、ポジティブとネガティブが背中合わせになっていた。そのあたりについて、絓さんはどうお考えですか?
絓 「カントとサド」問題ですよね。いわゆる議会制民主主義が保証する「言論の自由」の議論になると、前述の橋川文三ではないけれど、責任を伴うか否かという論点が必ず俎上に上がってくる。そういった自由に焦点を当てるのではなく、むしろ、「長いナイフの夜」事件を扱った『わが友ヒットラー』(69年)から見えてくる、ヒットラー打倒を考える突撃隊(SA)というある種のアナーキーな存在にシンパシーを抱いていたという点。ヒットラーという全体主義、ファシズムを超えるためのある種の自由みたいなものを三島は擁護していた部分に着目したいです。
中島 アナーキーな自由を擁護したという点はその通りだと思います。と同時に、『サド』同様、『ヒットラー』でもぎりぎりの所でアナーキーな自由は反転する。一方で、そのレベルで三島が考えていた自由と、絓さんが現在始めている〝市民運動〟が希求する言論の自由の擁護というのは、異なる位相の議論のようにも見受けます。
絓さんの『一歩前進、二歩後退』(講談社)での樋口毅宏論「リスクと「不気味なもの」」で触れられている言論・表現の自由というのは資本が要請するものであって、要するに資本は差別だろうと反差別だろうと、資本にとってリスクになれば抑えるのだと論じられている。
絓 危機管理ですね。
中島 絓さんの現在の活動を通じて保持しようとする言論の自由は、行政のリスクヘッジへの対抗という意味で同じ位相にあるとはいえませんか。
絓 そういう意味では段階があると言えそうです。我々は当面、資本主義社会における「言論の自由」に留まらざるをえない。あとは、資本の隙間を見出して、自由を、言うべきことを言うことしかできないわけだ。ましてや、いわゆる権威主義国家のようなところにおいては、それがもっと大変なのであって、いかにしてそれを言うかというところからはじめなければならない。
しかし、資本が許す自由を超えることを、三島は三島なりに希求していたのではないでしょうか。
梶尾 資本が許す自由、戦後憲法が許す自由を超えようとしていたのだと思います。三島のいう「言論の自由」というのは日本国憲法に準拠する形で組み立てられたロジックなので、憲法が保証するところが大きいのだけれども、いかにそれに乗りつつ、一方でそれをどうすり抜けるかということを考えていた。
絓 今や、天皇制を守ることが平和憲法を守ることだというロジックが、憲法学やリベラルな文学者までが主張していますけど、いいんですかね。大江だって、さすがにそうは言わないでしょう。三島は明確に改正すべきだと言った。その場合、無の独裁のような、何でもOKだけど統治はなされるという、ほとんど天皇制アナキズム的な独特の発想が、三島のある種のイデアルな考え方だと言えそうですね。
梶尾 絓さんもおっしゃる、「反独裁のアナーキー」です。
絓 まあ、そんなものはありえないわけだけれども。
梶尾 三島の中には、アナキズムへの強い志向があり、戦後一瞬現れたアナーキーな社会の面影が、ノスタルジーの感覚をともないながら繰り返しテーマ化されています。
絓 三島の言う戦後のアナーキーというのは坂口安吾的なものとどう違うのでしょうか。三島のそれは、『青の時代』(50年)の山崎晃嗣(光クラブ事件)よりも、先にあげた山口健二のほうが、私にはわかるのですが。
梶尾 例えば、安吾は「堕落論」(46年)の中で、闇屋に身をやつす特攻隊員といった存在を称揚してみせるのですが、それはやはり世代の問題が大きく影響している気がします。『金閣寺』(56年)では、闇屋になった若い士官に象徴される戦後社会の無秩序がノスタルジックに語られていますが、安吾は闇屋にはならなかった世代の作家です。
中島 悪に対する感性が安吾には乏しかったのではないでしょうか。だから、「堕落」を言っても悪にはなりえない。一方で三島には悪に関する感性がすごくあったからこそ、サドになりうるアナーキーを見ていたのではないか。
絓 たしかに、安吾にはサド的なものがないかもしれない。
梶尾 そういう意味では三島よりもはるかに安吾の方が明晰ではないですか。
中島 理性的ですよね。
繰り返しになりますけれども、三島が「言論の自由」を考える上で主眼を置いていたのはやはりソ連であり、共産主義下においていかに自由や全体性を確保するかを試行錯誤していた。では、ソ連崩壊以降、現在我々がいる「全体」とはいったい何か、「全体」主義はいかなる形をとるのか。
今は「全体」というものが規定できないぐらいに資本がグローバル化してしまった。その中での言論・表現の自由というのは、絓さんがおっしゃる資本の危機管理、リスクヘッジに負い、それに翻弄されるものとして我々を規定している。それは、どこか資本の文明化作用に期待するレベルになり果てている。反差別をPCとして回収した資本は、言論の自由をもリスクヘッジとして回収しようとしているわけです。
ですから、当たり前のことですが、三島が考えていた自由や全体性といったものと、現在のそれらが全く位相が異なるものだということをふまえつつ、しかし三島の思考を現在へといかに接続するかが同時に求められているのだと思います。(おわり)
★すが・ひでみ=文芸評論家。著書に『天皇制の隠語』『反原発の思想史』『一歩前進、二歩後退』など。一九四九年生。
★なかじま・かずお=文芸評論家・近畿大学教授。著書に『アフター・リアリズム』『収容所文学論』など。一九六八年生。
★かじお・ふみたけ=神戸大学大学院准教授・日本近現代文学。著書に『否定の文体』など。一九七八年生。
