「名作」と友達になる 学校では教えてくれないシェイクスピア
北村 紗衣著
かげはら 史帆
本書は、シェイクスピア研究者の北村紗衣が、五日間にわたって高校生にシェイクスピアを教える講義録である。
いうまでもなく、シェイクスピアやその作品は「学校で教えられる」ことも往々にしてある。世界史や文学史ではその名前が必ず出てくるし、音楽の授業でシェイクスピア由来のオペラやバレエに触れることもあるだろう。では、どこに「学校では教えてくれない」要素があるのだろうか。
この講義は、シェイクスピアの生涯や作品、英語の韻やリズム、時代背景、演出、映画などありとあらゆるトピックを扱っている。だが重要なのはその網羅性ではなく、「批判」(あるいは批評)を到達目標としている点だろう。北村は冒頭でこう言う。「これから始める授業ではですね、(中略)シェイクスピアの作品を、批判的に楽しむことを学びます。批判的に楽しむって、なんか矛盾しているみたいな感じですけど、作品を楽しむっていうのは、良いところに目をつけて褒めることだけじゃないんです」──北村氏がこの講義で生徒たちに提供しているのは、批判する力を養うための情報や実習である。
たとえば『ロミオとジュリエット』について、ある生徒がこの物語は「うっかりミス」が招いたバッドエンドなのであまり悲劇性を感じられないと言うと、北村は『マクベス』の登場人物と比較しながら、登場人物が「悪気がない」ゆえの救いようのなさが悲劇的であると批評し、生徒を「ああ……。」とうならせる。北村はさらに話を深め、本作の登場人物が取るに足らない理由で死に至るのは、「ヴェローナ社会の腐敗」「親による過剰な家父長権の行使」「宗教的背景」などがあるからと解説し、「ロマンティックで悲劇的なお話ですが、わりと社会批判の芝居でもある」と結論づける。一方で北村はこの解釈を生徒に強要することはなく「まあ、別にこう読まなくてもいい」と述べ、次の課題として、ロミオとジュリエットの出会いのシーンの演出を生徒に考えさせる。この演出のプレゼンテーションは、本書の楽しい部分のひとつである。舞台を平安時代やロシアとウクライナの戦時下などに置き換えたアイデアは、それ自体がおのずとシェイクスピアの戯曲への批評を形成しているが、北村はさらにその演出を批評し、表現のブラッシュアップを提案する(批評への批評がここで成立している)。本書の最大の魅力は、こうした、北村と若者たちが織りなす多層的な批評/批判の渦であろう。
さて、この講義録から大人の読者が得るべきものも、シェイクスピアや周辺事情に関する情報のみにとどまらない(もちろん、情報自体も非常に面白いのだが)。この講義に参加しているのは、麻布高校と武蔵高校──いわゆる名門男子校の生徒たちである。北村は科研費の助成の成果であるこのアウトリーチを男子校で行う理由を明確に述べている。「たぶん男性のほうが演劇についてもジェンダーについても、学校で触れる機会が少ないと思うんですよ」「今本当にジェンダーに関する教育を必要としているのは男の子のほうじゃないかと思うことがあるんです」──五日間の講義を経て彼らが書いた映画評は驚くほどレベルが高く、学力のある生徒にふさわしい知性を具えているが、同時に彼らのような「将来、けっこう社会的にえらくなるかもしれない」男子に対して大人が持ちがちな表層的なイメージを打破する柔軟さを宿している。とりわけシェイクスピア作品や後世の翻案作品がはらむジェンダーの問題は、この講義を通して彼らの心と頭脳に大きな爪痕を残したに違いない。また、北村はエピローグで、シェイクスピア劇に登場する「架空の人々は現実の人間にくらべると、発達障害を抱えている私にもはるかに理解しやすい」と語っているが、同様の傾向を持つ若者にとってこの言葉は大きな糧になるだろう。本書は、北村のシェイクスピア講義を介して、現代の若者と古典とのスリリングな交わりと、未来への希望を示してくれる一冊である。(かげはら・しほ=作家)
★きたむら・さえ=武蔵大学教授・英文学・フェミニスト批評・舞台芸術史。著書に『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』『批評の教室』『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』『英語の路地裏』など。一九八三年生。
書籍
| 書籍名 | 学校では教えてくれないシェイクスピア |
| ISBN13 | 9784255013725 |
| ISBN10 | 4255013721 |
