2026/02/27号 8面

人間喜劇

私市保彦×小倉孝誠 バルザック『人間喜劇』全20巻(水声社)刊行開始
対談=私市保彦×小倉孝誠 <バルザックを読む愉悦、その深淵> バルザック『人間喜劇』全20巻(水声社)刊行開始  二〇二五年末、水声社からバルザック『人間喜劇』全二〇巻の刊行が始まった。あまりにも膨大でこれまで完結に至ったことがない《人間喜劇》を、バルザック自身の構想に従い全訳することで、その全体像を明らかにしようとする初の試みである。刊行を期に、責任編集者のお一人である仏文学者の私市保彦氏と、慶應義塾大学教授の小倉孝誠氏に対談をお願いした。(編集部)  小倉 素晴らしい企画がスタートしましたね。  私市 《人間喜劇》全訳は本邦初の試みです。過去にあった大きな企画は、まず河出書房の『バルザック全集』。これは一九三四年刊行で十六巻まで出て途絶しました。  小倉 戦後は東京創元社から『バルザック全集』二六巻が出ていますね。私市さんも最終巻で書簡集を翻訳しています。また、セレクションというかたちでは、藤原書店の『人間喜劇』セレクションが出ましたし、私市さんが責任編集者の一人として水声社から出されたテーマ選集『愛の葛藤・夢魔小説選集』『芸術/狂気小説選集』『幻想・怪奇小説選集』があります。この流れの上で今回の水声社の企画ということになりますが、バルザックが自らの構想をもとに作成した《人間喜劇》のカタログや、フュルヌ版への書き込みに示した作品の順序に則り、書きかけの断片や構想しか残っていない作品、序文などもできる限り収録する方針だと。この徹底した構成には脱帽の思いです。  すでに刊行されている第一巻、第二巻でも、「資料」や各翻訳者による周到な「作品解題」が付され、最新のバルザック研究の成果が反映されていると感じます。  これだけ壮大な企画ですから、主要作品についてはある程度、これまでの翻訳を利用するという方針でしょうか。  私市 基本的には過去の翻訳を活かす方針です。ただそのまま転載することはできないので、必ず各担当が訳の見直しをし、解題を書きます。  もともとの予定からはずれ込み、完結は二〇二七年六月を見込んでいます。しかしそれも当然で、改めてバルザックは大変な作家だと、僕も訳者の一人として実感しているところです。  バルザックは《人間喜劇》の序文で「戸籍簿と競争するつもりだ」と言うのですが、「人間再登場法」という構想が浮かんだとき、妹のローヌに「僕は天才になりつつあるのだ!」と、興奮して話したという有名なエピソードがあります。バルザック自身が、〈私生活情景〉〈地方生活情景〉〈パリ生活情景〉〈政治生活情景〉〈軍隊生活情景〉〈田園生活情景〉〈哲学的研究〉〈分析的研究〉と分類し、世界の〝全て〟を書き記そうと考えたのです。僕が思うに、妹のローヌに話したときには、バルザックの頭の中にほとんど構想は出来上がっていたのではないかと。  「戸籍簿と競争する」つまり「新しい戸籍簿を作り上げる」という構えで描き出された《人間喜劇》では、中心になる時代は七月革命前後ですが、一六世紀ルネサンスのカトリーヌ・ド・メディシスの時代まで入ってきます。王朝時代、王政復古、七月革命……と描く時代も幅広いのです。  小倉 《人間喜劇》第一巻の冒頭に私市さんは、「天才バルザックの誕生」という一文を寄せていらっしゃいます。そこではバルザックがどのように作家として形成されていったのか、いかにして《人間喜劇》を構想したか、そのプロセスが説得的に書かれています。どんな偉大な作家も、初めから作家ではないわけですね。若い時代の修行と体験を経て、バルザックはある時バルザックになった、そのことを実感しました。  私市 バルザックは度はずれた人間と言いますか、まさに〝天才〟と呼ぶにふさわしい人物です。たとえば彼はすごい読書家で、寄宿学校時代もひたすら本を読んでいました。フェーブルという図書を管理していた神父が、バルザックに学校の蔵書を借り出して読むことを許し、バルザックは読書に溺れた挙句、人事不省になり家に帰された、そんなエピソードもあります。  また作品を訳していて感じるのは、バルザックの並外れた記憶力です。バルザックに比較できる人間がいるとしたら、日本では南方熊楠でしょう。熊楠は図書館で読んだテキストを、家に帰ってからノートに再現できたと言います。  小倉 バルザックにもそのような能力があったのですか。  私市 それに近い記憶力を持っていたと思います。フェルナン・ロットが《人間喜劇》にどれだけの人物が登場するのか、人物事典を編集していますが、とにかく膨大で三〇〇〇名近い。それが全てバルザックの頭の中にあったわけですから。そのうち自分の作品と現実がまざりあって、有名な話では、バルザックが亡くなるときに、「ビアンションを呼んでくれ」と言ったという。  小倉 ビアンションは《人間喜劇》に繰り返し登場する医者ですね。  私市 再登場法では同じ人物が繰り返し別の作品に登場します。三〇〇〇もの自分が作り上げた人物像を記憶しているバルザックは、桁外れの能力の持ち主ですが、今回の全訳でも名前の表記は重要で、もう一人の責任編集者の柏木隆雄さんを中心に、表記統一を図っています。  小倉 「戸籍簿と競争する」と言ったバルザックは、習俗の歴史を体系的に描くことを通じて、社会と時代の再現を試みた。《人間喜劇》総序の中でバルザックは、歴史家と張り合おうとしていますね。これまで歴史家は王朝や君主の歴史しか書いていない。民衆の歴史、習俗の歴史は、まだ誰も書いていない。それを行うのがこの私だと。この高らかな宣言は、何度読んでも感動します。  バルザックこそが小説の概念を根底から変え、近代小説を作り上げた。少なくともフランスの小説に関して言えば、バルザック以前/バルザック以後という分け方さえ可能だと思います。  私市 これは小倉さんの領分でしょうが、第二次世界大戦後にフランスでアンチ・ローマンが出てきたときには、「打倒バルザック」ということになりました。バルザックは小説の世界を作り上げた神様だけれど、それを打倒して別の小説作法を立ち上げるのだと。でも神ですから、到底倒せるはずもない。  小倉 一九世紀に関して言えばフロベールもゾラも、二〇世紀文学を始めたプルーストですら影響を受け、バルザック的な世界を抱えています。  フロベールは、バルザックを好きではなかったようです。バルザックの文章はうまくないなどと、手紙に書いています。ただそう言いながらフロベールは、『感情教育』の草稿の余白に、「バルザックの『谷間の百合』に注意すること」と記しているんです。二つの物語はどちらも、人妻と青年のプラトニックな恋愛を描くものですが、『谷間の百合』に似てしまわぬように、と非常に意識しています。  ゾラにも、『ルーゴン=マッカール叢書』を構想したときに、「バルザックと私の違い」を綴った二~三ページのメモが残っています。「バルザックはこうした、でも私はこうする」という内容が羅列されているんです。つまりゾラは、バルザックが行ったことの意義がわかった上で、バルザックとの差異化を図っているわけです。確かに、この社会の様々な階層の人々を全体的に描き出そうという姿勢はゾラも同じですし、パリと地方の対比を描くという、バルザックが発明した作法も踏襲しています。  さらにはプルーストも、上流社会の風俗や芸術家の世界を、パリ中心ではありつつも、コンブレーやノルマンディなど地方の状況を含めて描いています。パリと地方のコントラストを描くのは、バルザック以来のフランス文学の伝統と言えますね。ほかにもアランがバルザック論を書いていますし、小説を好まなかったヴァレリーがバルザックにだけは一目置いていたなど、様々な影響が挙げられます。  私市 バルザックは、パリと地方の違いをかなり意識的に書いていますよね。『幻滅』などの作品に特に顕著です。  フロベールが『谷間の百合』をかなり意識していたという話でしたが、この作品は単なる恋愛小説ではないことも加えておきます。モルソフ伯爵夫人が最後の最後に、青年フェリックスへの手紙の中で、抑えていた熱情を爆発させる。本心を曝け出すのです。ただそれはほんの一瞬で、すぐに元の理性的な趣きに戻るのですが。その一瞬を描いたことが、バルザックのすごさだと思っています。それまでの恋愛小説にはなかったでしょうし、川端康成も『谷間の百合』に描かれる心理的葛藤に興味を抱き、『たんぽぽ』などに影響のあとがあり、とりわけ大岡昇平の『武蔵野夫人』はバルザックの『谷間の百合』の焼き直しです。  小倉 実は私が最初に読んだバルザック作品は『谷間の百合』でした。田舎の中学生には、上流階級の人妻と青年貴族のプラトニックな恋愛は、とても理解できませんでしたが(笑)。  戦後、ヌーヴォー・ロマンのロブ=グリエやナタリー・サロートらは、バルザックを批判するために、戦略的にフロベールやプルーストを持ち上げました。ただ、同じヌーヴォー・ロマンの作家でもビュトールは、バルザックを高く評価する著作を書いています。  バルザックは常に立ち返るべきフランスの小説の原点であり、後世の人間が批判するにしろ評価するにしろ、彼の偉大さを裏付けることにほかなりません。  現代フランスで言えば、ミシェル・ウエルベック。彼はスキャンダラスな内容をテーマにするので、物議を醸す作家ですが、小説の意匠は一九世紀的です。たとえば『ある島の可能性』の語り手は、バルザックをしばしば引用しています。ウエルベックは一九世紀の小説家たちにめくばせしているところがありますし、このようにバルザック以来の小説の構造は、未だに強い力を持っていると思います。  私市 これまでにも良くも悪くも、様々な評価がなされていますが、バルザックを訳していると、まだまだこれから再評価されるべき作家だと感じます。これから先、より一層バルザックを読んでもらいたいですし、今回の企画がその役割を担うことに期待しているのです。  小倉 今回は《人間喜劇》全訳という申し分のない企画ですが、これ以外にも可能性は残されていますよね。プレイヤード版Œuvres diverses(「さまざまな作品」)全二巻の二巻目には、新聞記事や「生理学もの」のようなジャーナリスティックな作品がたくさん収められています。《人間喜劇》の小説と関連の深いテキストもあります。個別に邦訳された作品はありますが、ジャーナリスト・バルザックの全体像は、日本ではまだ紹介されていません。  私市 ロラン・ショレというバルザック研究家がBalzac journariste: le tournant de 1830(一八三〇年の転換点におけるバルザック・ジャーナリスト)という大部の本を書いています。小倉さんが言われた、プレイヤード版Œuvres diversesに収録されている、《人間喜劇》に関連する断片を、拾い上げて整理するのはこれからの作業になります。また、書簡集も入っていません。  小倉 ガルニエ社からは書簡集が五巻も刊行されていますからね。  私市 バルザックはとにかく、すごく読むしすごく書くんです。彼の場合、書簡が日記の役割を果たすぐらいです。残念ですが、書簡全てを入れるのは無理でしょうね。  小倉 私市さんはバルザック研究家というだけでなく、児童文学も幻想文学も、殊にSFの始祖であるジュール・ヴェルヌや、さらには比較文学でも様々なお仕事をされていますが、フランス文学研究の出発点がバルザックだったということでしょうか。  私市 そうなんです。大学に入ってから水野亮先生訳のバルザックの『従妹ベット』を河出書房の世界文学全集で読んで衝撃を受け、専門に学びたいと思いました。東大の仏文に進む際には渡辺一夫先生にバルザックをやりたいと相談すると、水野亮先生を紹介していただきました。以来、水野先生の下で、僕はバルザック研究に開眼したと言えます。河出書房の全集の編集を水野先生となさった小西茂也先生のご遺族も紹介して頂きました。  小倉 当時を代表するバルザック研究者たちですね。  私市 卒論は『ステニー』の作品論でした。  小倉 初期の書簡体小説ですね。  先ほど『谷間の百合』を最初に読んだとお話ししましたが、大学に入って多少フランス語がわかるようになって『幻滅』を読み、やはりすごい作家だと思いました。描かれているのは未知の世界でしたが、その壮大な広がりと深みに、現実に直面するような感覚で圧倒されました。その後は『ゴリオ爺さん』『あら皮』『従妹ベット』……と違う作品を読むたびに、その創造性の高さを感じました。  先ほど今後ますます再評価を、と話されていましたが、これまで長年バルザックを研究してこられ、今なお翻訳を通じて再発見することはございますか。  私市 第四巻に収録されますが、『無心論者のミサ』という作品を訳しました。これはまだきちんとした訳がなかったんです。どのような話か簡単に言いますと、無神論者として知られていた著名な医師が、ひそかに教会でミサを挙げるのです。不思議に思った医者の弟子であるビアンションが、謎を探るという作品です。実在人物にモデルがいるのですが、亡くなったのは水売りの労働者。実はこの人物が、金に困っていたこれから立身出世を遂げようとする学生をバックアップしていた事実が明らかになります。水売りは仕事のために、馬車と馬を買おうとしていた金までも、学生の支援につぎ込んでいる。インテリ層と労働者階級の交流がそこにあり、しかも労働者階級側が、父親か何かのように金銭的にも精神的にも支援するという。二つの世界を交わらせ描写した、興味深い作品です。  小倉 対照的といってもいいような世界が交わる物語は、翻訳が困難であると同時にやりがいもあるでしょうね。  私市 バルザックには訳しながら、何度も驚かされる小説がたくさんあります。今は第六巻に収録予定の『ピエレット』を訳していますが、これも見事な作品です。「シンデレラ」を元に書かれていることは明確で、バルザックは、シンデレラの靴は「ガラスverre」ではなく「皮革vair」だったことを記しています。今では「シンデレラ」と言えばガラスの靴が定着していますが、鋭い洞察ですね。  そして「シンデレラ」から引き継がれるかたちで、継子いじめのシーンが随所に出てきます。  小倉 少々気がめいるお話ですよね。  私市 そうですね。ところが面白いのは、それが単なる家庭内の問題ではなく、地方都市プロヴァンの、王党派と自由派の闘争をも描いているという点です。小説内ではリベラルが勝利しますが、そうした政治的闘争を、「シンデレラ」の物語を基に作り上げている。僕の知る限り、フランスの研究者は誰もペローとの関係については触れていないのですが。  マルクスやエンゲルスはバルザックの読者で、ふたりは、バルザックは政治的には王党派だけれど、当時の勃興するブルジョアの姿を、これほどに描いた作家は他にはいないと褒めています。  小倉 バルザックは政治的には王党派でカトリックで、イデオロギー的には保守かもしれない。けれど同時代の社会を誰よりも見抜いていて、そのメカニズムを誰よりも作品の中で分析していた。そのことをマルクスとエンゲルスが高く評価し、その後マルクス主義批評家のルカーチも評価していますよね。  改めてバルザックを読む楽しみを、研究者以外の一般の方々へも、お伝えいただけますか。  私市 専門家による解題が非常にわかりやすいので、読書の支えになると思います。僕は初めから解説を読まないで、中ぐらいで読むようにしています。とにかく様々な人々が出てきますので、その機微に触れ、共感したり反感を持ったり、いろいろな思いがわくでしょう。  歌舞伎には登場人物が勢ぞろいする場面がありますよね。同じことをバルザックもしています。ある人が、バルザックは人物だけ並べても作品になると言いましたが、まさにそうなのです。登場人物の描き方が見事で、その登場人物をまた別の物語の中に据えたり、別の話の脇役として語らせたりと、《人間喜劇》は二重三重の構造を持っています。個々の物語が面白く、さらに物語と物語が影響し合い紡がれてくる面白さもある。立体的に立ち上がる世界を味わっていただきたいです。  小倉 バルザックの作品には善も悪も、美しいものも醜いものも、葛藤や対立も、人間社会を構成するありとあらゆる価値観や情動が出てきます。時代によって地域によって社会の様相は変わりますが、苦悩や抗争はいつの世にもなくならないものです。《人間喜劇》では人間の根底にある、様々な欲望や野心がぶつかり合い、感情や対立の激しい振幅が描かれます。それは現代社会に生きる我々にとってもけして無縁の世界ではない。現代の問題についても実は、《人間喜劇》にはすでに描かれている気さえします。  単純な人生論ではないし、簡単に答えを出してくれる作家ではない。でも人間の情動や人間関係のあり方について考察を促してくれる。今《人間喜劇》を読む意味は、大きいと思います。  『人間喜劇』全訳二十巻は、日本の翻訳の歴史に残る仕事になるでしょう。どうぞお体を大切に、完結まで走ってください。  私市 水声社の社長にも長生きしてくれよと言われています(笑)。 (おわり)

書籍

書籍名 人間喜劇
ISBN13 9784801009004
ISBN10 480100900X