幻の巨大火薬工場その実像
藤井 通彦著
一ノ瀬 俊也
戦後八〇年を迎えた今夏、メディアでも各種の関連報道が続いた。例によって戦争体験の〝語り部〟の減少を危惧するものが多かったが、一方で全国に多数が残る戦争関連史跡の保存を訴えるものは、皆無ではないにせよ少なかったように思う。戦争を語り継ごうとする関係者の努力は多とすべきであるが、一方でどうしてそこまで体験者の語りが重要視されるのかという疑問もある。意地の悪い見方をすれば、体験者の話を聞けば戦争について何か学べたことになるが、史跡の保存には費用がかかるうえ、その声なき声を聴き取るには一定の予備知識、勉強が必要となるからではないだろうか。
そのような折り、戦争史跡の保存とその意義を考えるうえで重要な一冊が上梓された。主題である「東京第二陸軍造兵廠坂ノ市製造所」とは、現在の大分県大分市東部で一九四〇(昭和一五)年に建設が始まり、四二年に正式設置された陸軍の火薬製造工場である。同所は日中戦争勃発後の陸軍が大量の火薬を必要としたため設置されたのであるが、大分県が選ばれたのは、必要な水や人手が確保できたこと、銃砲弾を製造していた小倉造兵廠(現・北九州市)に近かったこと、軍が自然災害や空襲対策として軍需工場を全国に分散させたこと、などのさまざまな理由があったという。
坂ノ市製造所に関する残存資料は少なく、本書の著者たちは大分や東京の文書館で公文書を博捜する一方、当時を知る地元の人々からの聞き取りを重ねて地道にその全体像の復元を進めていった。約一五〇万坪の土地と多数の建物を擁した広大な製造所の建設にあたり、多くの住民が立ち退きを強いられた。建設工事には多数の朝鮮人が従事した。火薬の製造には戦争中の労働力不足を補うべく動員された学徒たちがあたった。死者を出す爆発事故も発生する中で、製造される火薬は砲弾用から航空爆弾用へ、最後は本土決戦時に敵の戦車に体当たりするための携行用小型爆薬へと移っていった。仮に九州で本土決戦が生起していれば、九州出身の評者もこの世にいなかったかもしれない。本書がいうように、今はほぼ失われたかにみえる製造所の歴史は、現在のわれわれの生と地続きなのである。
一九四五年夏の敗戦後、同所の跡地には旭化成が進出して一九五〇年に始まる朝鮮戦争用の「特需火薬」を製造した。大手民間企業の進出により、かつての火薬製造所と戦争の記憶は急速に上書きされ、薄れていった。
本書は製造所の記憶が薄れていった理由を、住民や行政当局が戦争遺構を「軍国主義の遺物」という側面のみでとらえてきたことにあるとみる。しかし、たとえ「負の歴史」であっても「地域の重要な歴史の一コマ」であり、「「戦争と平和」「軍と民間」という二元論的とらえ方」にとどまらず、なぜこのような施設ができたのかなどを知ることで「自分らが暮らす地域の歴史に改めて思いを致すべき場として生かすべきではないか」と提言する。戦後九〇年というものがはたしてあるかどうかは別として、地域における戦争の記憶を語り継ぐ目的・意義についての貴重な提言である。
さらに本書は開戦を望んだ国民、それを煽ったメディアの戦争責任に言及しつつも、当時の政策決定システムを思えば主たる責任は「動員を決定、推進した側」が負うべきであり、「動員された」側の国民は先人の経験が示す重い教訓を永遠に記憶すべきである、製造所の歴史と遺構にはその教訓が凝縮しているとも主張する。前述の戦争報道でも、主たる戦争責任は対外進出の国策を立案、実行したはずの軍や政府ではなく、戦争に「熱狂」した国民とメディアにあるといわんばかりの主張が見受けられた。そのような倒錯ともいうべき主張を歴史の事実に即して見直すためにも、本書の出版は意義深いものである。(いちのせ・としや=埼玉大学教授・日本近現代史・軍事史)
★ふじい・みちひこ=ジャーナリスト。大分市出身。早稲田大学政治経済学部卒業後、西日本新聞社入社。社会部、東京支社報道部などで勤務したのち、ソウル支局長・国際部長・論説委員長などを歴任。その後テレビ西日本に移り、二〇一九年まで取締役報道局長などを務める。著書に『韓国流通を変えた男 秋山英一聞書 ロッテ百貨店創世記』『愛と絶望のコリア記 地方記者が見つめ続けた韓国』。一九五八年生。
書籍
| 書籍名 | 幻の巨大火薬工場その実像 |
| ISBN13 | 9784863293106 |
| ISBN10 | 4863293100 |
