2025/07/18号 3面

ジャン=リュック・ゴダール

ニコル・ブルネーズ著『ジャン=リュック・ゴダール』(伊藤洋司)
ジャン=リュック・ゴダール ニコル・ブルネーズ著 伊藤 洋司  ニコル・ブルネーズの『ジャン=リュック・ゴダール 思考するイメージ、行動するイメージ』(フィルムアート社)が面白い。第一章の最初の論考が特にいいのだが、これは一九九〇年代末に出版されたフランス語の書物にすでに収録されている。当時、評者はパリのシネマテークの近くにある飲み屋で彼女に話しかけられたが、フランス語が下手でこの論考の感想をきちんと伝えられずに終わった。  書物は四章からなり、理論から実践へと進む。第三章は『イメージの本』などをめぐる彼女とゴダールとの共同作業の貴重な記録であり、訳者の注釈の丁寧さも際立つ。だが、ここでは書物の理論的側面に焦点を当てたい。  本書でブルネーズは序論のエピグラフとして、イメージの喜びと知への反抗心の連関を示唆するベンヤミンの言葉を掲げた後、科学哲学における構成主義について語り出す。構成主義者のファイヤアーベントはありのままの事実など存在せず、事実は常に思弁的に構成されたものであり、そうした全ての事実に合致する理論も存在しないとした。そもそも科学の目的は絶対的な真理の探究ではないのだ。その上でブルネーズは、構成主義者とゴダールの共通点として、思考における非言語的表象の役割を再考させたことを挙げる。イメージは何かの反映ではなく、絶対的な真理への信仰に従わない創意に基づく、「あらゆる理論の実験場」(一八頁)になったのだ。  この議論の背景を確認しよう。かつてベルクソンがアインシュタインを執拗に攻撃し、近年においても、マルクス・ガブリエルがホーキング博士を強く批判したような、科学への根強い不信がある。構成主義がこの流れのなかで誕生した流派であるように、大きく見ればゴダールも同じ流れに属するという訳だ。  論理的な思考に基づく科学では絶対的な真理に到達できないとすれば、感覚がもたらすイメージの地位が向上する。では、イメージと真理の関係はどうだろう。アンドレ・バザンなら、フォイエルバッハが語った「感性の真理」(一〇六頁)に賛同しただろうが、ゴダールはそうではないようにも見える。「正しいイメージではない、ただのイメージだ」と『東風』で示される時、正しいイメージの存在そのものが否定されているようだからだ。だが、ブルネーズはイコンとの関係においてゴダールの映画のイメージを分析しながら、そのイメージを二つの「極限的なイメージ」(三一頁)の間に成立するものとみなす。聖骸布のような起源に関わる正統的なイメージと、「イメージは復活の時に到来するだろう」と言われるときのイメージの間、すなわち「原型を現前化させた奇跡のイメージと私たちに身体を与え直すことになる来たるべきイメージの間」(同頁)である。しかし、「絶対的な起源に回帰」(六三頁)しようとしても、そこに現れるのは常に複数的で非正統的な起源でしかないと、ブルネーズは指摘する。  来たるべきイメージはどうだろうか。このイメージもまた、人々がこの世で生きている限り決して目にすることのないイメージである。だからこそ、人々が実際に目にするあらゆるイメージは、正しくないただのイメージなのだ。「正しいイメージではない、ただのイメージだ」という言葉は、こうした感覚不可能な極限的イメージを条件として成立する。あるいはむしろ、『東風』から、一九八〇年代の「形象化の不可能性の諸問題」(一一二頁)をめぐる一連の作品を経て、『映画史』以降の作品に至る流れは、こうした思想のもとで明瞭に理解されると言うべきだろうか。  いずれにせよ、論理的な思考への不信があり、それに対して感覚的なイメージへの信仰がある。これは、ドゥルーズの『シネマ』と形式的に同一であるだけでなく、ドゥルーズの哲学全体に通じる姿勢でもある。だが、これは正当な姿勢なのだろうか。結局、論理を信じるか、感覚を信じるかという対立がある。あるいは、論理への享楽か、感覚への享楽かと言い直すべきだろうか。「理屈じゃない。感じろ」と言う人は多い。(堀潤之・須藤健太郎訳)(いとう・ようじ=中央大学教授・フランス文学)  ★ニコル・ブルネーズ=フランスの映画史家。パリ第三大学映画・視聴覚研究科教授。美術史家ユベール・ダミッシュのもとに学び、ゴダール『軽蔑』に関する博士論文を提出。映画をめぐる理論的考察を展開する。邦訳書に『映画の前衛とは何か』。一九六一年生。

書籍

書籍名 ジャン=リュック・ゴダール
ISBN13 9784845923243
ISBN10 4845923246