2026/02/27号 1面

『道徳形而上学の基礎づけ』を解体する

対談=永井 均×城戸 淳<永井哲学とカントの宿命的な邂逅>『『道徳形而上学の基礎づけ』を解体する』(春秋社)出版を機に
対談=永井 均×城戸 淳 <永井哲学とカントの宿命的な邂逅> 『『道徳形而上学の基礎づけ』を解体する』(春秋社)出版を機に  哲学者の永井均氏が、『『道徳形而上学の基礎づけ』を解体する カントの誤診2』(春秋社)を上梓した。前著『『純粋理性批判』を立て直す カントの誤診1』(同)に引き続きカントを検討対象とする本書では、いわゆる義務論を展開した道徳哲学の最重要著作の一つ『基礎づけ』を、一人の読者として、そして〝永井哲学〟という特異な思索の構築者として読解する。そして、カントがその出発点において見落とした「〈私〉の独在性」という形而上学的事実から、カントの議論を逆照射する。出版に際し、永井氏と、東北大学教授でカントを専門とする城戸淳氏に対談をお願いした。 (編集部)  永井 私はもう70歳を超えているのですが、これまで人生においてカントについて書いたことがほぼ皆無であったにもかかわらず、どういう風の吹き回しか、昨年の初めと今年の初めに、『カントの誤診』1と2という変な副題の本を立て続けに書きました。これは単なるトンデモ本にすぎないのか、それとも多少は哲学的な意味もあるのか。日本のアカデミックなカント研究の代表者であり、カント協会の会長でもあられる城戸淳さんにおいでいただき、お伺いしていこうと思います。  城戸 ありがとうございます。私はむしろアカデミックな意味でのカント研究からは距離をおく者ですが、今日はカント寄りの立場からお話しさせていただきます。  こんどの『誤診2』の序章は、前著『誤診1』でも引かれた『純粋理性批判』の誤謬推理論の一節から始まっています。私は前著『誤診1』の書評をここ読書人で書きました。その書評で私は、永井さんは「誤謬推理論の批判対象である合理的心理学のなかに独在性の残響を聞きとどけ」ているが、それはどうなのか、と疑問を呈しました。  というのも、私の見るところ、カント哲学も合理的心理学も、永井哲学のいう〈私〉の独在性からの隔たりは同じようなものだからです。どちらも立脚するのは「私」の主観的な内面性であり、それを心理学者は内的な直観によって実体として捉えうると主張するのに対して、カントはそれを誤謬推理だとして批判するわけです。このとき合理的心理学の直観は、永井さんが想定するようにヨコ問題〔編集部注:世界が開けているという事態に関し、主体の数だけ開けの原点が存在しているとされるなかで、ただそこからのみ現実に世界が開けている唯一の原点の存在を認め、それを〈私〉と呼んで区別する考え方。対比されるタテ問題は、数多くの開けの原点の存在を対等に認め、それらを自我・主観等と呼び、その構造を問題にする〕としての独在性から湧き出るというものではなく、もっぱら親密な自己の直接性に由来するのであり、その目標は魂という一存在者の不死です。  これに対してカントは、私というものを超越論的主観性の論理的機能へと絞りこんだうえで、その主観がそこから開かれる世界に対峙するという構図をえがいてみせます。――こういう私の読み方はごく普通のもので、むしろ永井さんが合理的心理学について過剰な読み込みをしているように思います。私には、合理的心理学のどこに独在性の通路をとおって本当の叡智界に繫がりうる突破口があるのか、見えなかったのです。  永井 私の観点から言いますと、「〈私〉の主観的な内面性」とか「親密な自己の直接性」といったものは、すべて独在性に由来するもので、それ以外であるケースはそもそも存在しません。主観とか自己でなくても、もっと簡単に心とか意識とかいっても同じです。そうした概念はじつはすべてヨコ問題としての独在性に由来している、というのが私の主張です。  とはいえ、この議論は特にカントに関係して出てきたわけではなく、『誤診1』ではもっぱらデカルトに関係づけて語っていますが、厳密に学術的にいえば『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか 哲学探究3』(春秋社)で取り上げたカスタネーダーやシューメイカーの議論に端を発すると考えたほうがよく、ああいった議論がじつは独在性の事実を考慮に入れなければそもそも成り立たない、という発見から生じたものだと言えます。  心や意識や主観や自己といった概念はすべて独在性に由来するものであり、そうであるほかはないので、それゆえに当然、カントも合理的心理学もその例外ではないわけです。確かに、その独在性の事実を物象化して世界内の実体のごとく捉えたという点は合理的心理学の犯した誤りで、実体化するにはカント的な経路を必要とします。しかし、それだからといって合理的心理学の原初的な直観が否定されてしまうわけではなく、むしろその誤り方には十分な根拠と価値がある、ということです。  そのどこに独在性の通路をとおって本当の叡智界に繫がりうる突破口があるかという点については、『誤診2』では序章の段落44から段落47で書かれています。思い切り単純化して語ってしまうなら、そもそも独在性の事実それ自体は、現象界の事実ではなく物それ自体的な事実であるという意味で叡智的であるとも言えます。この事実に直に触れたところから出発しているという点で、合理的心理学には優位性もあると考えられます。  この点は直接的に宗教的な議論に関係しています。例えば、トマス・アクィナスの「エッセ」概念は独在性との関連で捉えられる。私はそこに、イブン・シーナーからエックハルトに繫がる系譜を見て取っているわけです。  城戸 カント的な自己意識も、合理的心理学の内的直観も、すべてヨコ問題としての独在性から由来するものだというのは、つまるところは、そうかもしれません。そのうえで、合理的心理学は独在性という叡知的な事実を不器用な仕方でいわば露骨に語っているのに対して、カントはそれを批判的な抑制のもとで語っている。永井さんとしては、その露骨さのようなものに優位性を見ようということですね。  城戸 さて、このようにして『誤診2』の永井さんは、合理的心理学者の精神をひきついで、独在性の累進構造の突端で開かれる〈私〉の世界に、本当の叡智界を認めようとするわけです。しかし、当然ながらそれは、それぞれの私の自愛のエゴイズムを普遍的法則によって乗り越えたところに成り立つ、カントの道徳的な叡智界とは異なるでしょう。  とはいえ『誤診2』は、『誤診1』のようにカントから離反するのではなく、むしろ執拗にカントの思考を掘り起こし、永井さん自身の思考の糧にしているように見えるところがあります。そのように見える理由は、『基礎づけ』におけるカントの道徳的思考が、永井さんのいう独在性の累進構造と構造的にほぼパラレルだ、というところにあると私には思われます。  本書でなんども言及される「描けない図」にならってカントの歩みを言い換えれば、①唯一の現実的な私の感覚や欲求という出発点から、②それがそれぞれの私に認められることで各私的なエゴイズムが成立するが、それを道徳的な普遍性で克服して平坦にしたものが道徳的な世界であって、③そのような道徳を願うのはやはり私の意志である、ということになるでしょう。  このように確かに構造は似ているのですが、しかしその内実は異なります。たとえば、カントが問うのは独在性ではなくエゴイズムですし、最後に道徳的世界を願うのは、独在的な〈私〉ではなく、理性としての「本来的な自己」です。このようなカントとの類似と差異は、第一章以降も繰り返し確認されることになって、それが『誤診2』の主旋律だと言ってもよいだろうと思います。  永井 今のお話には、私が本書で書いたこととはまたちょっと別の、しかし哲学的には非常に重要な論点が含まれていると思いました。  私のカントへの最大の不満は、まさにそのような議論が『純理』の全議論に先行して存在すべきではなかったのか、という点にあるわけです。これをカントの土俵の上で語ると、カントの道徳哲学は理論哲学に先行すべきであったということになって、奇妙な主張のようにも聞こえますが、いま城戸さんが提示されたパラレル性の指摘を前提にして考えてよいならば、これは少しも変な話ではなくて、むしろ絶対に必要なことだといえると思うのです。  というのは、②の「それがそれぞれの私に認められることで各私的な……」というその過程の存在が――「……」にエゴイズムが入ろうとソリプシズムが入ろうと――ともあれ必要不可欠だからです。カントは道徳の次元ではじめてそういう話を始めるのですが、それではちょっと手遅れではないか――それ以前に、少なくとも言語的交流の、つまり言語の可能性の根拠そのものを問うという段階がぜひとも必要であって、そこでこの種の議論の介在が必要不可欠だったのではないか、と思われるのです。そうしないと、そもそも本質的に同型の複数の諸主体の並存という事実はいかにして成立可能なのか、なぜそのような事態の存在を前提にしてよいのか、すなわちそもそも主観性一般というようなものがなぜ考えられるのか、考えてよいのかという、私などにはいちばん肝心と思える論点がスルーされてしまうことになるからです。そして、カントは実際にスルーしてしまっているように思えるのですよ。  『誤診1』に書きましたが、言語の成立こそが、つまり言葉で話せるということこそが最も原初の道徳です。どちらも形式に従うことではあるとはいえ、まずは言語的な意味に従うことを根底において、そのうえでその言語的な意味によって語られるある種の内容(法的な)に従うということが成立します。(実は、その二段階が截然と分離できるかという別の大問題もありますが、それは無視するとすれば)その際に、その関係づけにおいて、カント道徳哲学の最大のテーマである、噓(とその反対の誠実性)という問題もまた成立する、と言えるのではないか。すると、先ほどの話に戻すなら、独在性は現象界の人間にはついには到達不可能な根源的な噓いつわりのありえなさへ通じている唯一の通路でもあるゆえに、叡智性の問題に繫がるというわけです。  城戸 カントの『純粋理性批判』には人称カテゴリーとそれに基づく言語的世界像についての考察がなく、「基礎に手抜き工事がある」のだが、じつはその基礎工事をしているのが『基礎づけ』だ、ということですね。ふつうは理論哲学の基礎のうえに実践哲学を重ねるわけですので、これは強烈な逆転です。  試みにカントの肩をもつなら、『純粋理性批判』では人称カテゴリーは不要で、人間が自然を認識するということを議論するとき、「私」と言っても「われわれ」と言っても同じなのだと言いたいのでしょう。カントには、言語の成り立ちに関する哲学的な不感症のようなものがあるように思われます。  さて序章はここまでにして、先を急ぎましょう。『誤診2』は『基礎づけ』と章立てが同じでして、第一章からは『基礎づけ』を引用しながら永井さんの考察が進んでいきます。その考察は、永井さんのごくふつうの(つまりカントやドイツ観念論に汚染されていない)感覚によるカント批判と、独在性の観点からの読解と批判とが織り交ざるように進んでいくことになります。  ふつうの感覚によるカント批判の例として、104頁からの「入学試験」を取り上げてみたいと思います。たしかに、自分が受かるために勉強して頑張ろうという格率は、全員がそう思って頑張っても全員が受かるわけではないので、普遍化可能性のテストに合格しないように見えます。しかし、常識的に言って、そういう頑張りが道徳的に悪いようには思われません。  研究文献では、このような例は「偽陰性」の事例として知られています。普遍化可能性テストには陰性(不合格)と出るが、それは偽りの判定なのではないか、という事例です。この不都合を解消するには、格率の定式を考えなおさなければなりません。つまり、そもそも大学入学試験というものは、高等教育の、ひいては文明の発展のためにあり、受験生は自分が選抜される資格があるかどうかを試すのです。だから、不正行為をしないで頑張って受験すれば、その心意気だけで十分に善いといえます。  たいして善くもないように見えるかもしれませんが、道徳は不正を排除するだけで、その枠内で何をするかは各人の自由裁量に委ねられるべきだとされます。それがカントのリベラリズムです。道徳的には誰でも「つまらない人」(122頁)でしかなく、個性は道徳の枠内で何をするかに宿るということです。  普遍化しうる格率として定式化しなおせば、入学試験における「私が受かりたい」とは、「資格のある人が選抜されるべきだ(が、それが私であればよいなあ)」ということです。丸括弧内の願望は傾向性に基づくもので、これは互いに衝突することになります。その前の格率の部分は普遍化できますが、そこに「可能な場合は不正行為をしてでも」といったことが混ざると、入学試験の制度は崩壊することになるでしょう。  永井 第一に、まずはふつうの感覚によるカントに対する疑問を続けるなら、カンニングをする人はけっこう多いけれどもそれで試験という制度が崩壊したりはしませんね。試験という制度はある程度の不正行為を許容できるように出来ている、それゆえにそれをしてもよい、とは(なぜ)言えないのか。反対に私は、じつはそうも言えるということが重要だ、と思っているわけです。そのことを知らないとふつうに生きていけない、だから、そこも学ばなければならない。このことは神羅万象に当てはまるので、きわめて重要です。  第二に、それでも不正行為をしない人――しない場合のほうが多いでしょうけど――のそういうふつうの行為は、それでも「宝石のように光り輝く」であろうか、という小さい疑問があります。  第三に、第一の続きですが、試験ではなくふつうにただ生きている場合、人間は一般にいつでも自分の快苦・利害を基盤にして生きていると思いますが、そういう場合に「資格のある人が受かるべきだ」に相当する配慮は「表立って悪事を犯さない」という程度にしか働いていないように思われます。つねに定言命法に従おうとして生きていたらずいぶん違った人生になるように思えるのですが、それはほんとうによい人生なのだろうか。  永井 第四に、ふつうの感覚には拠らない、もっと哲学的な疑問なのですが、「私であればよいなあ」と思うということはそもそもどういうことなのか、それは本当に「傾向性に基づく欲望」ということで捉えられるのか、という疑問です。他の人にもまた「傾向性に基づく欲望」はあるわけですが、なぜそれらではなく特にこいつの傾向性に基づく欲望だけをまったく比較を絶して重視するのだろうか、その根拠はどこにあるのか。それは傾向性に基づく欲望だということにあるのではないはずです。それなら他の人にもあるわけですから。  本当のところは、傾向性に基づく欲望が存在していて理性の命令と「互いに衝突する」としても、まったく客観的に見るならそのこと自体が一個の自然的事実であって、たんにより強いほうが実現されるか、相殺されて薄められたりもする、という事実があるだけのことで、そこにはじつは何の問題もないと言えるのではなかろうか。  問題は、一にかかって、じつはそれらのうちの一人が私であるというところからのみ発しているのであって、感性と理性の対立は関係ないのではないか。もっとラディカルな言い方をするなら、感性と理性のタテ問題上の対立として考えられている事柄そのものが、さらに言えば、感性と理性といったタテ問題上の概念対立そのものが、じつは最初から、そのうち一人が私であるというヨコ問題が入り込んで、そこからの累進によって成立しているのではないでしょうか。  城戸 第一の点については、たしかに不正をおこなう人が一定数で限られているなら、実際には入試制度は崩壊しません。しかし、私こそがその例外的な不正の利益に与ろうという格率を全員がもつならば、制度は崩壊します。それだから不正を犯そうと思ってはならないわけですが、みながそう決意すれば、私だけは不正を犯して利益を得ることが可能になります。しかし、そのような格率を全員がもつならば……という仕方で、カントは繰り返し普遍化に訴えるわけです。カントの見方では、少なくとも完全義務のリストに絞っていえば、人間は道徳を遵守して生きることが可能ですし、そのことは義務に基づいて意識できます。  第二と第三の点は、さきほど言及したカントのリベラリズムが答えになるでしょう。逆からいえば、「堅苦しいことを抜きにして柔軟に事に臨む」ことを信条とするような人は、そこから不正な利益を得ることを狙っている、あるいは狙うことを許しているということです。  第四の点について言えば、傾向性に基づく欲望は人間的な自然現象として認めてよいのですが、人間はその傾向性を理性による格率のもとで発揮するわけで、その格率の抗争は道徳的な問題になりうるのです。たとえば食欲は自然現象ですが、腹が減ったあまりに、ときには占有の規則を破って人のものを食べてよいという脱法的な格率をとると、その普遍化は争いを招くことになります。食欲は私にだけ切実に感じられるので、そこからエゴイズムの格率が導き出されるわけですが、それに対して人々の食料の占有や分配をどうすべきかは普遍的な観点から考えるのであり、それが理性の役割です。  城戸 続く『誤診2』の第二章からは、いよいよ本格的に、独在性の累進構造と似たものをカントの道徳的思考に読みとるという作業が試みられています。それがいわば裏側からはっきり見えるのは、義務に違反する行為についてのカントの分析を、永井さんが紹介しているところです(169頁以下)。  カントによれば、ひとは悪い行為をするとき、「自らの傾向性に従って、自分だけは(今回だけは)法則に例外を認めている」。つまり、今回だけ、私だけは例外と言い訳しつつ、「噓をつかない」といった普遍的法則の妥当性をずるがしこく悪用(永井さんのいう「曲用」)して、「きっと返す」と噓の約束をしているというわけです。この分析を永井さんは「おそらくは『基礎づけ』の中で最も重要な箇所」として紹介したうえで、これはヨコ問題として普遍化しえない私と今の現実性をくっきり浮かびあがらせるものだと読み解いています。  とはいえ、すぐに永井さん自身が注釈して「まことに残念」だと嘆いているように、カントはこれを「「傾向性」と「理性」との対立にタテ問題化」してしまいます。カントの見方では、私や今というものの例外性は、いつでも誰にとっても今の私の快・不快だけが現実に感じられるものだという仕方で、最初から傾向性と結びついているのです。それゆえに、同一の観点から普遍的に見る私は、傾向性を脱した理性的主体になります。しかし永井さんからは、これは出発点にあった独在的な〈私〉を忘れた、「ヨコ問題のタテ問題による解決という誤りの典型例」であるように見えるのです。  これはカントと永井さんとの出会いとすれ違いがよくわかる場面かと思います。カントが傾向性と理性という垂直方向の距離を問うときに、永井さんは私と他者という水平方向の離散を見ているわけです。  永井 それはまったくその通りです。  城戸 もう一つは、カントのなかに「道徳法則に基づく他者構成」を読もうという永井さんの試みについてです。「祈る」という行為が神を存在させるように、道徳性だけが目的自体としての「他者の存在を作りだしうる」。しかしその他者は、私が道徳を曲用することでいつでも手段化しうるものであり、目的としての自立性をもたないのではないか。永井さんは、ここに「カント道徳哲学の深淵」を見ています(179頁以下)。この永井さんの他者論には、カント解釈としての正否をこえた、独自の哲学的な価値があるように思えます。  他者とは、永井さんにとっては、そこから世界が開かれる開闢の原点であって、それが私という現実の原点のほかにも開かれているということがそもそも矛盾しているような存在者です。しかしカントが、私以外の理性的存在者としての他者について問うのは、そいつは私とおなじく普遍的な道徳法則の立法者であるのか否か、という問いです。私のまわりの人々が自己決定的にさまざまな目的を追求する一人称的な実践的生物であることは観察によって自明なのですが、それらの人々がさらに道徳的自律の主体であり、それゆえ目的自体としての尊厳を有するか否かは、観察によっては判別しがたい、もっぱら純粋理性の問いであると言えます。  複数の他者をふたたび私のもとへと集約するところも似ています。永井さんは、私と同型の現実性の原点としての他者を複数的に並列化したうえで、その世界をふたたび私という唯一の観点から開きなおそうと試みます。カントのいう「目的の国」では、さまざまな道徳的な臣民がたがいに他者として並びたつ叡智界において、ふたたび理性としての私が立法者としての元首の地位を占めることになります。  永井さんはこのような構造的な類型性を手掛かりにして、いわば「暴力的」(ハイデガー)に、自分の哲学をカントに読み込もうとしているわけです。それは目覚ましい哲学的成果であるとは思いますが、その暴力性を指摘する声があってもよいだろうとも思います。  永井 その点について少々自己批判的というか、むしろ自己批評的に語りますと、私はこの本の中でカントに対してニヒリスティッシュという評言を与えていますが、同じことが方向を変えて自分にも当てはまりますね。私のこの考え方では、最も根底的には、他者というものはじつのところは存在しない、と言っていることになりますから。  しかしそれは、少なくとも一面においては真実ではないでしょうか。もう少しひねくれた洒落た言い方で言っても、他者というものはじつのところは(額面どおりには)存在していない、という仕方でしか存在できない在り方をしている。そして、残念ながら、道徳的な他者構成は現実に力不足であるわけです。  城戸 思想史をさかのぼるなら、カント哲学のあと、カントにならったフィヒテにあてつけて、他者や神を理性的に構成する立場は結局「無を欲する意志」としての「ニヒリズム」なのではないか、という異論をヤコービが唱えるのですが、これがニヒリズム概念の初出だといわれています。  永井さんの見るとおり、カントにおいて「他者の存在は理性の要請である」(262頁)が、しかしその要請は他者の現実性そのものには届いていない。これがそもそもニヒリズムの揺籃であったともいまえすね。  城戸 さて、本書の第三章で検討されるカントの『基礎づけ』第三章の課題は、定言命法の規範性を演繹することです。第二章までは、ふつうの道徳的意識を哲学的に整理すればどういう仕組みが見えるかという分析で、さまざまな定言命法の方式が出てくるわけですが、第三章では、ではなぜその定言命法に従わなくてはならないのか、と問うことになります。いわゆるWhy be moral?の問いが前面に出てくるのです。 永井さんの言い方では、定言命法は「自他を繫ぐ」ものですが、そこには法則の普遍化の手続きを語る「命題部分」と、それに従うべきだと命じる「命令部分」とがあります。永井さんによれば、カントは「命題部分は世俗的に繫げ、命令部分は天上的に繫いでいる」(248頁)。「天上的に繫ぐ」ということを私なりに読みとけば、カント的な規範性の力は、さまざまな理性主体が法則的に並び立つ世界を見下ろして、その世界を開闢する魂が、そのようにあれと望むことに由来するということでしょうか。 これが大きく外れていなければ、これはたしかにさきほどの「目的の国」の構造と似ているように思います。ただし、カントの場合はそこに傾向性と理性という垂直性が組み込まれ、理性が感性を制圧するという力が加わって、規範性が成り立つことになるというところが違うわけでしょう。  永井 「命題部分」は普遍的法則化の要請で、社会契約の内容にあたりますが、これが必要だといくら言われても、それだけでその内部にそれを実現する力が隠されているわけではありません。そこで「命令部分」が必要になるわけです。  言語の場合だと、文法のようなものが提示されたうえでこのように話せと命令もされる、とは言えるとしても、同時に〝そのように話さないと自分にとっても都合が悪い〟という面もまた付随しています。だから、言語的意味と発話の関係に関しては、噓をつくことにあたる問題は存在しません。 ですが、事実と発話の関係に関しては存在します。つまり、そこには「狡さ」の介入する余地があるわけです。道徳に関して命令部分が独立に必要となるのは、言語と違って道徳にはむしろ、そのようにしないほうが自分にとっては都合がよいという面が必ず同時に付随しているからです。だからこそ道徳が必要になるわけなので、これは不可避です。 では命令部分は何をするか。人々から世俗的な個別人格的要素を取り除いて、いわば裸の魂にするのだと思います。これは、合理的心理学が事実的に主張していたことを規範的に主張することだと言えます。人間社会の成り立ちにはたしかに、そのような「命令」の存在が要請されている。とはいえやはり、それだけしか言えないでしょう。 さて、ではその要請にはなぜ従うべきなのか、とさらに問われたなら、その要請の内容をもういちど繰り返して語るしか答えるべき内容は原理的にない、と言わざるをえないのです。Why be moral? の問いへの答えは――この語は差別語で使えないとされることもありますがあえて使えば――必ず「吃る」ことになるわけです。もうすでに有効性をもって使われてしまっており、もう一度使ってももう有効性はないことを、また言わざるをえない。 この事実はこの世の中のあり方を象徴しているように私には思えるのです。カントの「叡智界の一員になれる」という発想は、逆に言えば、この世の中は決して叡智界にはなりえない、と言っているとも取れて、それは真理であろうと思われます。残念ながらこの世界はあまりうまく出来ていないのですね。 城戸 本書の終章では『実践理性批判』が取り上げられています。じつは、超越論的自由という出発点から自律の概念を媒介にして道徳的な規範性の演繹へと進むという『基礎づけ』の構想は、その後の『実践理性批判』においては放棄されて、逆に「道徳法則の意識」としての「理性の事実」を出発点にするという論証構造の大逆転がおこります。苦し紛れにもみえるこの大逆転が成功しているか否かはともかく、一つ言えるのは、「理性の事実」とは、『実践理性批判』のカントがWhy be moral?の問いに対して「吃り」ながらかろうじて口走った台詞だということです。 永井さんには『実践理性批判』は『基礎づけ』の高みからの転落であると見えるようですが、このような点から見れば『実践理性批判』は、自由のうえに道徳を据える『基礎づけ』よりも、さらにニヒリスティシュに徹底しているともいえます。道徳は端的に「無の上に据えられている」ということを真正面から認めているからです。 永井 その終章は一と二に分かれ、前半の一では、道徳の成立のために神や不死といったものをカントが要請する議論を検討しています。けれどこうした議論をカントが『実践理性批判』に付け加えるのはやっぱり変ではないでしょうか。最高善を目指すことが道徳の目的だということになると、カントの議論で一番肝心だった道徳の自立が失われてしまって、定言命法が仮言化されてしまうのではないかと思うからです。 城戸 とはいえ、最高善と神の要請に訴えるようになる理路には理解できるところもあります。『純粋理性批判』の段階でのカントは、最高善を道徳的な行為の動機として認めています。最高善の享受を動機としてしか、人間は道徳的にふるまえないのだと主張するのです。 それに対して『基礎づけ』は、その手の議論を一切抜きにして叡智界を導入し、その規範性の力によって道徳を実現するという理路をたどりました。しかし、次いで『実践理性批判』が最高善を復活させるのですが、それは道徳の動機としてではなくて、私の理解では、人間世界において道徳が成立するための制約として要請するのです。道徳そのもののなかには最高善は効いていない。カントは、道徳的行為の動機と道徳的制度の存立可能性とを切り分けて、後者にだけ神や最高善を持ち込むことにしたわけです。 永井 そこがカントの苦心でしょうね。世界そのものがそうした危うさを持ったあり方をしているということをそのまま提示して見せているわけです。 城戸 はい。カントのニヒリスティッシュなところは、最高善の要請などは虚構ではないかと薄々気づきながら語っているところと言えます。カントは晩年に、「認証的弁神論」と呼ばれる議論を展開しています。実践理性が有権的解釈者として自ら弁神論を構成するというのです。しかし、ここまでいくと、じつは弁神論の体をなしておらず、神は言ってみれば浮き駒となり、神という概念を操作的に使って、道徳が実現するシステムを存立させるという構図が成立しています。これがカントのニヒリズムですね。  永井 終章の二では、最終14段落において「いずれにせよ、定言命法という統一性は解体されねばならない」と述べました。定言命法が構成する命題的部分と命令的部分は、ほんとうは結合できないのではないかと論じるわけです。命題的部分は、先に論じたように、社会契約に相当する普遍的法則化の要請のことでした。  命令的部分とは、一言で言うと誠実性や意識の透明性のことです。その道徳を心から意志しているか。カントの場合、この二つの部分がくっついているのが興味深いのですが、私の診断ではこれは成功していないし、結合はそもそも成功しないのだというわけです。だから、究極的な誠実性は実現できなくても、程度問題で繫がるというくらいが関の山だろうと思われます。  重要なのは、「統一性は解体されねばならない」ということです。これは本書の題名でもありました。解体というのは分裂という意味で、その分かたれた一方の誠実性や透明性こそ、本書では重要なのです。  序章の段落44に付した注において、「独在性の倫理」とでも呼ぶべき議論をしています。つまり、魂の真の透明性は、その人の認識論的水準には決して届かない、むしろ存在論的水準にいきなり届く、というのが独在性の根幹なわけです。  城戸 「独在性の倫理」は、カント風に表現するなら「目的の国」の「元首」に当たると言えるのではないかと思います。みなが臣民なのだけれどじつは一人ひとり元首でもあって、元首が立法して統治している。元首はいつでも道徳システムを廃棄することができるのだけれど、あえてそうはしない。元首の善意志がなければ道徳はそもそも成り立たないわけですね。  永井 カントの側からはそのようになるかもしれません。私の言う「倫理性」は、マイスター・エックハルトと仏教から流れてきている言葉なので、ふつうの意味とは少し異なるのですが。エックハルトや仏教においては離脱が最も大事な徳であり、それに基づかなければあらゆる道徳的なものは意味がないとします。それはしかし、道徳への個人的な通路が開かれているという意味で、人生の考え方としては正しいというに過ぎず、そこから通常の社会的な道徳や良さの基準が導き出されることはありません。これがカントに繫がっていると言えるかどうかは難しい。  城戸 しかし、現代のわれわれにとって、カントが叡智界のことを語るときの感覚はもはや追体験しがたいですよね。たんに道徳的な厳格主義のイメージをカントに当て込んでいるだけかもしれません。序章についてのコメントで私は、カントの叡智界は理性的な秩序で、永井さんの叡智界は独在性の開かれのことであり、論じている領域が違うと指摘しましたが、しかし逆向きに、永井哲学の方からカントの叡智界を考える可能性もありますね。  永井 独在性と理性との接続という点では、後者は一般化や普遍化をつかさどる能力であり、独在性や離脱の担う働きではない。そして最初の段階で根底になっているのは独在性であって、理性ではないだろう、というのが私の見解です。 城戸 カントにとって理性は無制約者の領域を切り開く能力ですが、「無制約者」という観念がもはやわれわれには意味がわからない。しかしその空白は、現代人が自分で理解するよう託された事柄だとも言えます。これを永井さんのように独在性からの開闢とみなすなら、それが叡智界であるというのはそのとおりなのだと思います。        (おわり)  ★ながい・ひとし=日本大学特任教授・哲学。著書に『〈子ども〉のための哲学』『〈私〉の実在の比類なさ』『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』『世界の独在論的存在構造 哲学探究2』など。一九五一年生。  ★きど・あつし=東北大学教授・哲学。著書に『理性の深淵』『ニーチェ』、共編著に『哲学の問題群』Tetsugaku Companion to Feeling、共著に『新・カント読本』、訳書に『カントの自由論』など。一九七二年生。

書籍

書籍名 『道徳形而上学の基礎づけ』を解体する
ISBN13 9784393324219
ISBN10 4393324218