2026/07/24号 2面

私の謎 柄谷行人回想録

私の謎 柄谷行人回想録 柄谷 行人著(聞き手=滝沢文那) 倉数 茂  軽やかで幸福な書物である。高名な哲学者・文芸批評家の柄谷行人が、インタビュアーの滝沢文那相手に八四年間の人生を振り返ったものだ。軽やかなのは、語り手本人が自らの記憶を透明な眼差しで一瞥しつつ移動していくからであり、幸福なのは、語られる人生が数々の輝かしい出会いに満ちているからだ。  柄谷は一九四一年に兵庫県の尼崎に生まれている。富裕な名家で、父は禁じられたマルクス主義の書物を蔵の中に隠し持っているような人だった。幼い頃には戦争の影が周囲にあり、空襲で防空壕に入ったり、家の近くの焼け跡を見に行ったりした記憶があるという。小学から中学時代にかけて、家にあったドストエフスキーやトルストイ、カントやプラトンといった文学や哲学の本を乱読した。別段理解していたわけではなかったと言うが、とにかく本を読みまくる子供だったらしい。のちの、多方面にわたる膨大な知識を踏み台に、学問ジャンルを自由に越境していく思考スタイルはこの頃に原型がつくられたのかもしれない。  一方で小学校の教室では、授業でまったく口をきけなくなる時期があった。場面緘黙である。高校までは、いつも夢の中にいるような現実感の希薄さがあった。どこの大学に行きたいのか、先生に尋ねられてもはっきりしたことを答えられない。自分の意思や希望といったものに自分でも実感を持てないのだ。こうしたありかたは、今なら離人症と診断される可能性がある。初期の著作であるマクベス論や漱石論では、自分がなぜここに存在しているのかわからないという、存在論的不安感が繰り返し論じられるが、本書を通じて、それが柄谷自身の若き日の感覚に基づいているのだと理解できた。  一九六〇年に東京大学に入学し、高揚していた安保闘争に接触すると同時に、西部邁や廣松渉、加藤尚武といった人々との交友が始まる。のちに大知識人となる彼らもまだ政治運動に熱中する二十代の学生だった。そしてこれ以降、柄谷の周りには、次々に歴史に名を残す思想家・文学者がひきも切らずに現れるようになる。そのごく一部を挙げてみるだけでも、中上健次、江藤淳、埴谷雄高、大江健三郎、ポール・ド・マン、ジャック・デリダ、フレデリック・ジェイムソン、エドワード・サイード、デヴィッド・グレーバー……と錚々たるリストができあがる。二十世紀後半から二十一世紀にかけてのインテレクチュアル・オーラルヒストリーとして読んでも、本書は抜群に興味深い。  それにしてもこれらの思想家たちから、柄谷がいかに愛されていることか! 彼らはまだ若い柄谷を見つけ出し、激励し、好意を持ち、平等な友誼を結ぶ。その呼びかけに応じて、柄谷の活動範囲も、アメリカへ、アジアへ、世界へと広がっていく。本書で語られるそうした交友関係は、ほとんどユートピアめいた多幸性を帯びている。  柄谷はそうした出会いを自分で求めたわけではなく、つねに偶然だったのだという。人間関係についてだけではない。本書で繰り返し柄谷が強調するのは、長い著述生活の中で、思考すべきテーマもまた、いつも意図せぬときに訪れたということである。  文芸批評家として小説を論ずるところから出発するが、やがてマルクスを、哲学研究のディシプリンからはズレたやり方で読むようになって書いた『マルクス、その可能性の中心』は日本の批評のスタイルを変えた。アメリカでの講義がもとになった『日本近代文学の起源』は、日本文学研究者が思いもよらない視点から明治文学を論じたものとして今や古典となっている。「それは、努力したり目指したりして実現したことではなかった。いわば『向こうから来た』ことだった」。  だからこの回想録には、努力と才能で道を切り開いてきたと誇るような偉人伝・立身伝めいたいやらしさがない。むしろ、風にページを捲らせるように、人生の場面が軽々と──どこか他人事(ひとごと)のように──語られていく。  五〇代には、「国家と資本を揚棄する」ことを目指したNAM(ニュー・アソシエーション・ムーブメント)を創設する。そのNAMは短期で潰えるが、その後も文明論的視座から、積極的に政治的社会的発言を繰り返し、今に至る。その転機となったのが、一九九八年に着想した「交換様式論」だった。人類が行う交換活動は、互酬(A)、支配と保護(B)、商品交換(C)、Aの高められた再来である(D)の4種類に分類できるというアイデアだ。それぞれAがプリミティブな共同体、Bが国家、Cが資本主義に対応している。そしてDだけが、人類を未来の危機から救うことができる。このもっとも謎めいた様式Dもまた、人間の意識的な努力で実現できるものではなく、それでもいつか「向こうから来る」のだと柄谷はいう。  私は、一九九八年から二年間、大学院生として柄谷に師事していた。講義ではマルクスの「資本論」や執筆中だった「トランス・クリティーク」の草稿などがテクストとして使われた。教室の柄谷は、フル回転している思考マシンにみえた。精密機械というより、ブルドーザーやショベルカーのような重機である。カントやヘーゲルといった思想家が次々に呼び出され、目の前で解体され、吟味され、裁断され、再び結合されていく。巨大な伽藍を建設途上の工事現場にいきなり放り出されたような興奮と畏怖を感じた。授業後も熱が冷めやらず、同級生たちとファミレスで、数時間議論をしないとアパートの部屋に帰る気持ちになれなかった。  怖い先生だった。院生がつまらない発表をするとあからさまに苛立ったが、それ以上に、目の前にいない論敵(数百年前の人間であることもあった)への批判が始まると、滔々と怒りの言葉が溢れ出した。機嫌のいいときでさえ──そうしたときに一緒にいるのは本当に楽しかったのだけれども──背後にはつねに黒雲がたなびき、いつでも怒りの稲妻がちらちらひらめいているように感じられた。ある時期まで、柄谷の書くものには、こうした存在論的憤怒のようなものが伏在しており、それが作品の魅力にもなっていたと思う。  しかし本書からそのような深い苛立ちは綺麗さっぱりと消え失せている。苦しかったことや悲しかったことでさえ、肯定の光を浴びてあらわれる。柄谷自身がかつて大江健三郎論「同一性の円環」で述べたように、人生のすべての出来事が「老年」の境地から「牧歌的な光景」として眺められるのだ。思えば自分の〈誕生〉でさえ、自分で望んだわけではなく、「向こう」からやってきたことであった。そして生あるものは、いずれ〈死〉の到来によって消滅する。その生誕と死に挟まれた「私」という謎、その謎を、柄谷はもはや解き明かそうとするのではなく、何ものかからの贈り物として歓びをもって肯定しているのだ。(くらかず・しげる=作家・文芸評論家)  ★からたに・こうじん=哲学者。著書に『力と交換様式』など。  ★たきざわ・ぶんな=朝日新聞文化部で、演劇・放送・出版を取材。

書籍

書籍名 私の謎 柄谷行人回想録
ISBN13 9784065429334
ISBN10 4065429331