書評キャンパス
元木泰雄『『兵範記』を読む』
日野 七奈子
この書物は、元木泰雄氏の遺作である。
元木泰雄氏は日本中世の政治史を専門とし、『武士の成立』を始めとする名書を幾つも出し、中世史研究を牽引してきた。彼の論じた武士論は大きな影響を与えており、今日の武士研究では欠かせないものとなっている。
その彼の遺作が武士関係ではなく、貴族だという事は一見、意外に思える。
しかし、元木氏の初期の研究には『武士の成立』だけでなく、一九八七年の論文集『院政期政治史研究』では、貴族も対象に含まれている。そもそも、中世は武士のみの時代ではなく、公家や寺社といった勢力が入り乱れる時代であった。そして、院政という新たな政治体制の確立により、荘園や政治に大きな変化が起こった時期でもある。
本書は、摂関家に仕えた実務官僚、平信範の日記『兵範記』を中心に、院政期における摂関家の動向等について描いている。本の構成は序論、第一部から第四部、補論、解説となっており非常に重厚である。「日記」という記録媒体故か、政治的光景だけでなく、日常のことも詳しく記録されているのだ。引用されている日記の一節に解説がついている。その文章はどれも、分かりやすくて興味深い。ここに、元木氏の長年積み上げてきた研究の鋭い視点が光っている。
『兵範記』には保元の乱が起き、武士の世が訪れるまでの過程が生々しく記されている。この古記録の特色として挙げられるのは、摂関家内部から見た時代の変化を記している所であり、その点は慈円の『愚管抄』や『保元物語』といった、同時代を描く資料と異なる部分を持つ。
徐々に頼長が興福寺などの寺社で乱行を起こして破滅へ進んでいく件には、保元の乱及びその後の種が蒔かれたことを感じた。久安六年(一一五〇)に忠実が忠通から氏長者の地位を奪って義絶した理由に、父権に対する「不孝」という推測がなされた所が、特に印象的だった。当時の価値観が一番に現れている箇所とも捉えることができる。また、儀式の方法が記載される所は、当時におけるマニュアルの側面も持っている。
頼長が正月の大餐を開催した際、鷹や犬を引出物にしたことを批判した所も印象に残った。忠通の姉である高陽院の葬儀では、忠実が先例を破ったことに厳しい言葉を記している。当時、先例は守るべきもので、新儀は好まれていなかったことを表す。信範ら貴族は先例を守って、日記に欠かさず書くことで、次の世代に伝えることを重視していた。
このように「日記」は教科書でもあり、当時の実態をよく知ることができる記録でもある。違う視点から〝歴史〟を見て、多面的に掘り下げて考えることができる。
また後書きでは、著者の軌跡が分かる。
解説は、元木氏の弟子の一人である坂口太郎氏が記している。坂口氏は本書のチェックを託されたが、引用文を正確に訓読することに注力し、古辞書や研究成果を参照して、補訂を加えている。それはまさに学問の継承だと筆者は思う。
平安末期における政治史を知りたい方におすすめしたい一冊である。
★ひの・ななこ=帝京大学文学部史学科4年。趣味は博物館と美術館を巡ることで、気になった特別展があれば時間の合間を縫って鑑賞に訪れる。好きなドリンクはチャイラテ。
書籍
| 書籍名 | 『兵範記』を読む |
| ISBN13 | 9784047036031 |
| ISBN10 | 404703603X |
