書評キャンパス
温又柔『煌めくポリフォニー』
岩本 雄伍
「日本語がお上手ですね!」。
外国にルーツをもつ人が、日本で生まれ育ったかもしれないことを、私たちは想像できるはずだ。にもかかわらず、名前や見た目の特徴からその人が「外国」で生まれ育った「非日本人」であると、頭のなかで一方的に結論づけてしまう。時にその思考はヘイトスピーチ/クライムへと形を変え、現実の暴力を引き起こしかねない。この趨向を止めるために、私たちは「ことば」に寄り添って何ができるだろうか。
本書は、台湾人の両親のもとに生まれ長く日本で暮らしてきた作家・温又柔が、複数の媒体に寄稿してきた文章、講演録や創作をもとにしている。それぞれが異なる読み手や聞き手を想定するが、執筆活動を行うなかで幾度となく温が尋ねられてきた、「母国語で創作しないのですか?」という質問に対し、誰かが想定する「母国語」ではなく「私のことば」で書く、という意思表明であることは共通している。
たとえば、エッセイ「百年めの誓い」では、日本統治下の台湾で生まれた祖母が日本語を「会得」し、かの女が在台日本人と当たり前に日本語で話していた頃を2025年の現在から想像する。
温の両親を含む戦後生まれの台湾人は「前時代の負の遺産」として日本語を知り、国民党指揮下で現在「台湾華語」や「国語」と呼ばれる中国語を、民族運動の最中で台湾語を習得した。他方、幼少期から日本で生活してきた温が習得したのは、他でもない祖母が話していた日本語であった。親戚が集まる場で中国語を話しても「台湾人らしい」とは認められなかった体験は、温をして「日本ではなく台湾で育っていたのなら」と思わしめる。しかし、いや、その体験があるからこそ、温は「日本語のなかに浸りきって、自分ははじめからずっとここにいたかのような錯覚を覚えそうになるたび、そこから自分を引き剝がしたくなる」衝動に駆られるのだ。
「国名を冠する言語」からの呪縛から逃れ、複数のことばが一つになった温のポリフォニーは、東アジア近現代史の語り直しの試みでもある。侯孝賢の映画『悲情城市』には、聾者である台湾人の文清が日本語も台湾語も話せないことを理由に、仲間ではないと思われ、暴行されかける場面がある。温はこの場面を、関東大震災時に起こった朝鮮人虐殺を描いた在日朝鮮人作家・李良枝「かずきめ」に接続し、次のように語る――「日本語は、日本人が想像している以上に、日本人でない人びとの運命を左右してきた」。
日本語が分からず、「正しく」話せなかったもの(ここには文清のような聴覚障害者も含まれる)の命が危機にさらされた歴史は、たとえ戦争や植民地主義が終わろうと正当化されることはない。本書が祖母による日本語体験を想像することから始まったのは、百年のあいだに日本語が引き起こした虐殺の記憶を、台湾人(や在日朝鮮人)の視点から同時代に掘り起こそうとしたからだといえる。
おそらく、「台湾生まれ、日本語育ち」の著者個人の経験に即して本書を読むことはそう難しいことではない。だが、そのことばの種々から筆者を含めた日本語読者が引き受けるべきは、混沌のなかにある「不純で多彩」な「母語たち」の思想を共有し、もしかしたら目の前の人はかれらなりの「母語たち」に生きているかもしれない、と想像する力だろう。現実の暴力をこれ以上生まないために。
書籍
| 書籍名 | 煌めくポリフォニー |
| ISBN13 | 9784000617185 |
| ISBN10 | 4000617184 |
