2025/07/18号 3面

普通の組織

シュテファン・キュール著『普通の組織』(小野寺拓也)
普通の組織 シュテファン・キュール著 小野寺 拓也  「第一〇一警察予備大隊に所属する隊員の多くが、最後までユダヤ人殺害に加担し続けたのはなぜか」。この問いほど、一九九〇年代以降のナチズム・ホロコースト研究に影響を与えたものも少ないだろう。一九四二年七月一三日、この大隊がポーランドのユゼフフで約一五〇〇人のユダヤ人を殺害せよという命令を受けた時、五〇〇人近い隊員たちのほとんどに人を殺すという経験はなかった。殺害開始にあたり、大隊長は異例の訓示を行う。隊員のうち年配の者で、与えられた任務に耐えられそうにないものは、任務から外れてもよい、というのだ。十人ほどがその場で辞退を申し出た。さらに全体の二割弱の兵士たちは「嫌悪感を催す」などの理由から、殺戮の仕事から外してほしいと上官と折衝したり、途中でひそかに姿を消したりするなどして、この任務に加担することを止めた。だが八割弱の兵士たちは、任務を外れる可能性があったにもかかわらず、最後まで殺戮を実行し続けた。  参加を拒否したら処罰されるからだろう、と考える向きもあるかもしれない。だがホロコースト研究がすでに明らかにしているように、「戦後保安警察、秩序警察、国防軍のメンバーに対して行われた一〇〇〇件以上の裁判の中で、非武装の市民を殺害することを拒否したために禁固刑、強制収容所への収監、さらには死刑の判決を受けたことを証明できた弁護人はいな」い(本書一二九頁)。  隊員の平均年齢は三九歳と高く、ナチ党を支持する傾向が強かった青少年世代ではない。また彼らの多くはハンブルク出身の労働者であり、むしろ社会民主党や共産党などを支持してきた階層だった。そうした彼らが、最終的に少なくとも三八〇〇〇人を射殺し、四五〇〇〇人の強制移送に関与したのはなぜか。この問いは、多くのナチズム・ホロコースト研究者の関心を集めてきた。いわゆる「ゴールドハーゲン論争」は、まさにこの問いをめぐるものであったし、「普通の人びと」がナチ体制に賛同、協力、少なくとも黙認したのはなぜなのかという「動機」の解明が、「賛同に基づく独裁(合意独裁)」論という、一九九〇年代後半以降のあらたな境地を切り開いてきた。  本書は、すでにすべてが語り尽くされているかに思われるこの第一〇一警察予備大隊の事例について、システム理論にもとづく組織社会学という視点から新たな解釈を提示するものである。「なぜ隊員たちは最後まで加担したのか」という問いは、個人か組織かのどちらかに原因を求める議論になりやすい。ダニエル・ゴールドハーゲンのように、ドイツ人が「排除主義的反ユダヤ主義」を内面化していたからこそという説明が前者、クリストファー・ブラウニングのように「強い男」という規範イメージへの同調圧力が強かったからという解釈が後者にあたる。だがホロコーストのような組織的な暴力行使において、組織は期待通りの行為が行われることを求めるのであって、それがどのような動機で行われるかは二義的な問題に過ぎない(二四五頁)。動機と行動を直結させて論じることを、キュールは厳しく批判する。「政治的態度が必ずしも政治的動機にもとづく行為につながるわけではない」(一一三頁)。だがそれは、彼らの動機がどうでもよいということを意味しない。きわめて多面的な動機をもつメンバーが、それにもかかわらず求められる暴力を行使したのはなぜなのかを解明しなければならない。  本書においてキュールはブラウニング同様、同調圧力(同志関係)の重要性を認める。また、ユダヤ人からの金品の略奪・着服は、彼らの組織への加入や殺戮の中心的な動機ではなく、「好んで利用される副次的効果」に過ぎなかったという指摘も、従来の研究ですでにされている。では、本書の新たな貢献はどこにあるのだろうか。私見では、以下の三点がとくに重要だと思われる。  第一は「反ユダヤ主義的なコンセンサスの虚構」という議論である。キュールによれば、重要なのは(ゴールドハーゲンが言うように)人びとが実際に反ユダヤ主義を支持していたかどうかではなく、国民の大部分が反ユダヤ主義を受け入れているのだから、自分だけが批判や疑念を呈しても無駄だと人びとが考えるようになっていたという点にある。そうした状況下で反ユダヤ主義に異を唱える人物がいることは想定しづらい。この議論の重要なところは、反ユダヤ主義をたとえ内面化していなくても、「他の誰もが同意している」という「未確認の推定」によって特定の言動が発せられうるという点である。  第二は「無関心領域」という視点である。組織に加入するさい、メンバーはそこでの自分の活動をすべて詳細に知らされるわけではない。組織に属する以上、たいていのことは指示通りに行うことがメンバーに期待されるし、実際メンバーはその通りに行動する。なぜなら、そこで指示される行為の多くは、とりわけ強い違和感を抱かないような「無関心領域」に属するものだからだ。だが、ときに組織からの要求は「無関心領域」の枠内に収まらないことがある。大量射殺や絶滅収容所への移送がそれにあたる。  そこで重要になるのが、第三の「自己呈示」という観点である。社会において私たちは、できる限り一貫した言動を取ることを求められている。ある時には大量射殺に積極的に協力し、ある時には加担を拒絶し、という態度を取れば周囲の信頼を失いかねない。そこで、「いったん仲間に対して信頼できる殺害者として自己呈示を行うと、それを強化することの方が、必要であれば良心に従い、呈示の一貫性を失ってでもさらなる殺害の遂行を拒否することよりも、しばしば重要になったように思われる」(二四〇頁)。  個人の視点だけでは見えてこない多くの論点を提供する本書の議論は魅力的だが、そこが本書の欠点でもある。個人の「主体性」、行動可能性が見えにくいのだ。だがこの問題に「ファイナルアンサー」はあり得ない。考え続けるうえでの重要なピースがまた一冊加わったことを大いに喜びたい。(田野大輔訳)(おのでら・たくや=東京外国語大学大学院教授・ドイツ近現代史)  ★シュテファン・キュール=ドイツの社会学者。専門は社会理論・組織社会学・相互行為社会学など。邦訳書に『ナチ・コネクション』。一九六六年生。

書籍

書籍名 普通の組織
ISBN13 9784409241691
ISBN10 4409241699