拉致 上・下
高世 仁・NK917著
城山 英巳
評者は、現代中国や日中関係を研究しているが、かつて時事通信北京特派員時代に一度だけ北朝鮮を訪問したことがある。2002年8月18~19日に日朝赤十字会談が開かれる平壌に同行取材したのだが、その1週間後には日朝局長協議、9月17日には小泉純一郎首相が訪朝するという急展開を見せた。
評者が平壌で見たのは、異様な「微笑国家」だった。日朝赤十字会談前日が評者の誕生日だった。宿泊する高麗ホテルの部屋のベッドには花束とお祝いメッセージが置かれていた。同行記者も交えた懇親会ではケーキも用意された。食事後に日本人記者が開いた飲み会の場に突然、現日朝国交正常化交渉担当大使の宋日昊が現れた。北朝鮮はその時から、日本の首相訪朝をにらみ、友好を演出しようと日本人記者工作をしていたのだろう。
独裁国家の永続だけのため、独裁者の意向と指示に基づき、「顔」を使い分け、数々の悪事がさもなかったかのように微笑みを浮かべるような国家に対し、隣国の日本はどう対峙すれば、いいのだろうか。日本政府の「対話と圧力」という方針は、正しかったのだろうか。何をもって拉致問題の「解決」とすべきなのか。
本書は、「拉致」という北朝鮮が犯した許しがたい国家犯罪が、これまでにどこまで真相が明らかになったのかについて、著者が約30年間にわたって取材を続けた「事実」を丹念に積み重ね、これらの問いのヒントを与えてくれるものである。上下巻で720ページの大著だが、拉致問題の歴史と現在地、さらに日本政府や日本人としての取り組むべき方向性を示唆してくれている。
評者は次の四点で本書の内容と展開に圧倒された。
第一に、日本政府の「極秘文書」を基に、横田めぐみさんはじめ日本人拉致被害者の北朝鮮でのタスクや日常生活、人間関係が詳細に描かれていることだ。2002年10月に帰国した拉致被害者5人に対して政府は内密に聞き取り調査を実施したが、本書はその記録を基に北朝鮮の国家犯罪と噓を暴き出している。そのなかで拉致された日本人は当初、秘密工作員として養成される計画だったが、うまくいかず工作員の教育係に方針転換されたことも明らかにしている。
第二に、なぜ北朝鮮は日本人を拉致しなければならなかったのか、歴史的経緯を追跡している点だ。本書は「北朝鮮による拉致の原点は、戦後、米ソが占領した朝鮮半島にまでさかのぼる。この時すでに、『人の連れ去り』が公然と行われていた」と、拉致問題の起源を遡っているが、戦後冷戦構造のなかで、北朝鮮が地下ルートで展開した「人的移動」が日本人拉致につながったという視点は興味深い。本書では、北朝鮮が対南工作を実施するため、在日韓国・朝鮮人が韓国に送り込まれたが、韓国当局が警戒するようになり、「日本人」の身分により大きな利用価値を見いだしたと指摘。1950年代に国内で事実上非合法化された日本共産党のアジア展開と北朝鮮の工作活動に着目し、日本共産党の「北京機関」や北朝鮮との密航ルートとなった「人民艦隊」などが、日本人拉致の運搬手段となった「工作船」の起源だという見立てを示している。日本人拉致に関与した「よど号」グルーブが欧州だけでなく日本にも潜入していた実態を見れば、北朝鮮あるいはその意を受けたよど号グルーブが、日本人を拉致するには日本人を使うのが最もやりやすいという危険な発想を持っていたことが伺える。
第三は、著者も含めて拉致問題に関心を持ち、被害者家族に寄り添い、政府が動かなかった拉致問題を社会運動として、政治を動かしたジャーナリスト、政治家や秘書らの執念が描かれている点だ。詳細は本書に譲るが、『産経新聞』と『AERA』の記事で拉致疑惑が社会に広く知られるようになるのは1997年2月3日だが、1987年に起きた大韓航空機爆破事件を契機に日本人拉致疑惑に関心を持った日本共産党・橋本敦参院議員秘書、兵本達吉は、橋本の国会質問を作成した。88年3月26日、橋本の質問に対して梶山静六国家公安委員長は「北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚」と認める答弁を行った。実は先の97年記事をスクープした産経の阿部雅美記者は80年に「アベック3組ナゾの蒸発」という記事を書いており、兵本は国会質問に先立ち、日本共産党と対立関係にあった産経新聞に電話をかけ、「北朝鮮による拉致問題の解明に向けた小さなネットワークが築かれ始めた」(本書)。一方、評者は時事通信社会部の一年生記者だった1993~94年に兵本と情報交換する関係だったが、拉致問題の重大性を認識することはなく、ジャーナリストとしての嗅覚の乏しさを反省している。
第四は、拉致問題が進展しない理由として日本政府の姿勢を疑問視している点だ。本書によると、日本政府は2014年、拉致被害者である田中実さんと金田龍光さんの2人の「生存」情報を北朝鮮から伝えられたが、面会することもなく国民にひた隠し、〝見殺し〟にしている。2人の生存情報に対し、当時の菅義偉官房長官は「こんな内容じゃダメだ。これでは世論が納得しないよ」と一蹴したというが、著者は生存情報を足がかりに交渉開始を図るべきだと提案している。
日本政府が「拉致の疑いが十分濃厚」という答弁を行って38年が経った。拉致被害者や家族は残された「時間」という厳しい現実に直面している。われわれは本書を読むことでもう一度、「時間」の重みを感じる必要があるのではないだろうか。(しろやま・ひでみ=北海道大学教授・ジャーナリズム・中国メディア研究)
★たかせ・ひとし=ジャーナリスト。著書に『拉致 北朝鮮の国家犯罪』など。一九五三年生。
★NK917=複数のジャーナリストによる匿名ユニット。
書籍
| 書籍名 | 拉致 上・下 |
| ISBN13 | 9784845121694 |
| ISBN10 | 4845121697 |
