日中関係史
田中 史生編
馬場 毅
本書は二〇〇〇年間の日中関係史を、中国側が中華=文明世界と蛮夷=野蛮世界を区別する中華思想と、中華の君主がその威徳で蛮夷を教化する王化思想に基づき解釈する。日中の外交関係は朝貢、冊封関係を結んだり、両者の都合でこれらの関係を断絶したりしたが、このような朝貢、冊封関係の有無を、日中の外交関係を分析する重要な概念として使用している。同時に日本は国際社会では東夷として、国内では中華国として、蝦夷、琉球、朝鮮に対して振る舞ったという重要な指摘がされ、これらの関係は近代まで続いていき、その間日中の間で、ヒト・モノ・文化の伝来が行われたことが述べられている。本書は、このように日本が中国の国際秩序に参加した有無を分析しながら、両国の交流をわかりやすく説明した好著である。
各章の内容を紹介すると、「Ⅰ 田中史生論文」は、武帝以来、日本が中国の国際秩序に参加した時期、五世紀後半のように倭国の外交が生き詰まり、六世紀になると中国との通行も絶たれた時期の外交関係を、朝貢、冊封関係の有無という概念を用いて説明している。またこの時期、倭では大王中心の「天下」観が構想されたとしている。隋が中国本土を統合すると、倭国も中国を中心とする国際秩序に加わる。ただ遣隋使、遣唐使を通じて、中国との関係は、冊封を受けない朝貢国としてのものであったと重要な指摘をしている。
「Ⅱ 榎本渉論文」での対象は、九世紀に交流の手段が国家使節から海商に変化し、十世紀から国家と海商の共生時代が始まり、十四世紀まで続いた時期である。明が建国すると、日中関係の担い手は朝貢使(遣明使)と倭寇にかわる。日本から朝貢船が送られるが、海外文物の入手先として朝鮮、琉球が浮上したとする。
「Ⅲ 渡辺美希論文」は、明との朝貢貿易(勘合貿易)が十六世紀半ばには断絶し、代わって日明の民間商人(後期倭寇)が武装船団を組んで海禁を破り、大貿易(密貿易)を展開し、その後の徳川政権までの時期を描く。徳川政権は「鎖国」以後、明の国際秩序から相対的な自立を果たした。十七世紀半ば明が滅び、清が国際秩序の主催者となり民間貿易を公認したが、徳川政権は貿易制限政策をとった。十八世紀中葉には、朝鮮、琉球も組み込みつつ、清の国際秩序と日本の「国際」秩序がすみ分ける状態になった。
「Ⅳ 茂木敏夫」論文は、十九世紀初めから、日清戦争により朝鮮の「独立」が認められた時期までを記す。この時期は、東アジアの伝統的秩序、中華世界秩序が、西洋の近代世界の秩序、主権国家体制や資本主義世界経済に包摂されていき、伝統を脱却し近代を受容した日本が、伝統にこだわった中国に代わって東アジアの中心となったと理解されているが、茂木は、伝統と近代はそのような截然と分けられるものではないという斬新な視点から、史実の評価の見直しを行っている。
「Ⅴ 劉傑論文」では、日清戦争から現在までが取り扱われている。日清戦争に敗れた中国の知識人は、日本をモデルに改革を試みた。改良派(梁啓超)と革命派(孫文)にとって日本は変革を準備する拠点であり、その他に蔣介石や汪兆銘等の留学生も来日した。日露戦争の結果、日本は満蒙の特殊権益を獲得した。中国はナショナリズムが台頭し、諸外国の特殊権益の返還を求め五四運動に発展した。関東軍は満蒙問題の解決をめざし満洲事変を発動し、その後、八年に及ぶ日中戦争に至った。その後の内戦を経て国民政府は台湾に逃れ、中国には共産党の社会主義政権が成立した。一九八〇年代の改革開放以後、第二位の経済大国となった中国は、日本の侵略を受けた被害者意識と日本を超えた経済大国という誇りを共存させながら、二十一世紀の強国を目指しているとする。ただ中国を指導しているのが共産党の政権である現実を踏まえて、本章でその権力獲得の淵源(日中戦争期の組織拡大、内戦期の勝利の過程)についても述べた方が、読者に解りやすいのではないだろうか。(ばば・たけし=愛知大学名誉教授・中国近現代史・日中関係史)
★たなか・ふみお=早稲田大学教授・日本古代史。著書に『倭国と渡来人』など。一九六七年生。
書籍
書籍名 | 日中関係史 |