2026/06/26号 7面

間文化性から音楽を考える

間文化性から音楽を考える 安川 智子・藤田 茂編著/エヴェレット宇野 弥生・長木 誠司コンサルティング・エディター 原 塁  二〇二三年に東京藝術大学で開催された国際シンポジウム『相互文化主義と「洋楽」研究の現在――東西二元論とその超克――』を起点に編まれた本書は、序章と六つの章からなり、四つのコラムと二つのエッセイ、巻末には「間文化性に関わる概念用語一覧」が付されている。  「間文化性とは」と題された序章は、本書の鍵語となる「間文化性」概念の輪郭を縁取りつつも、明確な定義付けは行わず、各執筆者の理解に委ねることが示されており、この概念自体について思考することが本書の一つのテーマであることがわかる。続くラッセ・レヘトネンによる第一章は、橋本國彦の歌曲「舞」を主な分析対象とし、同曲では西洋モダニズム音楽の文脈のなかで日本音楽の伝統的要素が革新的なものとして現れていることを指摘し、伝統とモダンという二項対立を掘り崩していく。安川による第二章は、東洋的なものとみなされてきた「ペンタトニック」の、特に日仏における和声理論化の過程に焦点を当てながら、複数の観点の交錯を浮き彫りにする。長木誠司による第三章は、プッチーニのオペラ『蝶々夫人』を題材に、その日本表象と歴史的背景を検証しながら、登場人物をめぐるジェンダー論的分析を試みる。張惠玲による第四章は、オリヴィエ・メシアンの『七つの俳諧』から「雅楽」を分析し、作曲家が日本の雅楽に自身の音楽技法との共鳴を聴き取ったことを指摘する。また、張は『死者の復活を待ち望む』終楽章に中国の清朝時代の祭祀賛歌である「孔子賛歌」との類似点を聴き取り、そこから「実験的な中仏の間文化性」を描き出そうとする。第五章で藤田は、間文化性を「そうあるべきもの」として価値付ける態度を「間文化主義」と呼び、武満徹とメシアンが西と東の文化的差異を固定的・本質的なものと捉え、「それらの出会いや交配に創作上の中心的な問題があるかのように語ることがあった」と批判する。最後に宇野による第六章は、細川俊夫の作曲美学の根底に道教と仏教への関心を指摘し、それが『ランドスケープⅠ』や『ヒロシマ・声なき声』といった作品内でどのように音楽的「身振り」として表現されるかを詳細な楽曲分析によって示す。宇野によれば、道教や仏教に関する知識は、私たちが細川作品を聴く仕方を「再構築」するという。  本書は張や宇野の分析を、分析者自身の文化的アイデンティティに根差した聴き方によって「多層的な解釈」を可能にするものと位置付けており、これが本書の核をなす主張の一つといえる。もちろん、そうした音楽解釈の必要性(あるいは必然性)は、前世紀の終わり頃から、文化研究に影響を受けたニューミュージコロジーの論者たちによって盛んに訴えられてきたが、客観的・実証的であることを目指す日本の歴史音楽学の領域では、〈私〉が表面に現れることは、むしろ避けるべきこととされてきたように思う。そうしたなかで本書は、〈近現代日本における西洋音楽をめぐる実践〉という、喜びだけではなくある種の歪みや摩擦、混乱や矛盾を伴う営みをめぐり、私たちが自分自身の〈耳〉で先達の〈声〉を聞き、そこに自分たちの〈声〉を共振させるよう誘っている。そうした作業は、本書で取り上げられる橋本や武満、細川といった聖典だけではなく、支配的な価値観や権力構造によって抑圧され排除されてきた様々な〈声なき声〉に向けてもなされねばならない。一点、欲を言えば、シンポジウムという来歴に鑑みても、各章の議論を受けた発展的な共同討議が最後にあると、「間文化性」をめぐる見通しがより明瞭になったようにも思われる。とはいえ、用語解説も備える本書が、教育現場で読まれることを強く意識していることは明らかであり、議論を開かれたままにしておく方針も意図的なものであろう。各章の論述・立場を対照させながらこの概念の意義や射程を見定める共同作業は読者が引き受けるべき課題である。(はら・るい=多摩美術大学助手・音楽・音響芸術)  ★やすかわ・ともこ=北里大学教授・近代フランス音楽・文化史・音楽理論史。  ★ふじた・しげる=音楽学・現代フランス音楽。  ★エヴェレット・うの・やよい=ニューヨーク市立大学教授・戦後芸術音楽・映画・オペラ。  ★ちょうき・せいじ=東京大学名誉教授・音楽学・音楽評論。

書籍

書籍名 間文化性から音楽を考える
ISBN13 9784276101081
ISBN10 4276101085