2026/08/21号 1面

国策紙芝居からみる日本の戦争Ⅱ

対談=加藤陽子・大串潤児<紙芝居の歴史、日本の戦争の歴史>『国策紙芝居からみる日本の戦争Ⅱ』(勉誠社)をめぐって
対談=加藤陽子・大串潤児 <紙芝居の歴史、日本の戦争の歴史> 『国策紙芝居からみる日本の戦争Ⅱ』(勉誠社)をめぐって  今年の三月に勉誠社より刊行された、神奈川大学非文字資料研究センター「戦時下国策紙芝居と大衆メディアの研究」班編著『国策紙芝居からみる日本の戦争Ⅱ』は紙芝居という文化を通して、当時の戦争に対する見方や、日本を取り巻いていた状況を知ることができる一冊である。  八一年目の終戦記念日を迎えるにあたり、東京大学名誉教授の加藤陽子氏と、本書編著者で国立歴史民俗博物館教授の大串潤児氏に本書をめぐって対談いただいた。(編集部)  加藤 本書は二〇一四年から二五年まで、一〇年に及ぶ非文字資料としての紙芝居の調査・研究の成果ということで、本当に大変なお仕事です。  大串 我々、神奈川大学「非文字資料研究センター」における紙芝居研究のスタートは、二〇一二年、戦時中の児童文化いわゆる少国民文化の研究をされていた、詩人の櫻本富雄さんが所有していた、主として戦時下の紙芝居二四一点を含む史資料が寄贈されたことがきっかけです。そして、この二四一点の紙芝居の共同研究をスタートさせたのが二〇一四年、最初の成果としてまとめられたのが、前作『国策紙芝居からみる日本の戦争Ⅰ』(以下『Ⅰ』)です。  『Ⅰ』の編纂の目的は、二四一点の紙芝居全てに解題を付すことでした。作品のあらすじと、可能な範囲で画面を紹介しています。さらに「論考篇」として研究会のメンバーが論文を寄せ、加えて書誌データ、紙芝居所蔵機関・個人の目録を暫定的に掲載しています。こうした構成は本書『国策紙芝居からみる日本の戦争Ⅱ』(以下『Ⅱ』)でも踏襲されています。  各作品に付した解題や論考にまとめられる私たちの共同研究では、大きく三つの柱で分析・研究がなされています。その一つ目は、研究会の当初からの問題意識であった紙芝居研究にとどまらない「戦時下大衆メディアの研究」という視点です。「紙芝居文化の自立性」という言い方をしながら、紙芝居を他の大衆メディアと比較し、その上で紙芝居の特徴をとらえようとしました。  二つ目は、紙芝居作品それ自体の分析に加えて、紙芝居が演じられた場所というものもきちんと把握することです。従来の紙芝居研究は、作品のストーリーや描かれた画面を軸に、その作品のメッセージ性や戦時下におけるプロパガンダの意味合いなどが論じられてきたわけですが、紙芝居というのはそれを演じる人がいて、観客もいるわけです。今風に言えばインタラクティブですが、これらの関係性にきちんと目を凝らさなければ紙芝居の本質が見えてこない。つまり、どこでどういう人が何で紙芝居をしたのか。こうした問題を地域に即して明らかにする。当然そこには地域で紙芝居を実演した人がいる。紙芝居がさかんに行われていた地域の史資料調査が、我々の研究における二つ目の柱になっていきました。  加藤 上演された空間も見ていく必要があったのですね。  大串 さらに三つ目の柱は、植民地・占領地の問題を視野に入れるということです。台湾における調査が先行しましたが、韓国や、近年ではインドネシアにおける紙芝居の調査も、現地の研究者とネットワークをつくりながら進められています。またアイヌ民族の問題や樺太、また南洋諸島へもつらなる地域である北海道や沖縄などもとくに力点を入れて調査している地域です。  地域調査では、ほかにも紙芝居教育をめぐって興味深い議論をしている人物や、日本教育紙芝居協会のような団体の地域支部の活動が活発だったところ、あるいは綴り方教育などの教員の活動が活発で、かつ紙芝居の様々な資料が残っていそうな地域というのを選んで、史資料調査をしていきました。  その結果、日本で製作、頒布された紙芝居の総タイトル数は、櫻本さんより寄贈いただいた二四一点また極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)の証拠として文部省(当時)がGHQに提出したリストに記載されたタイトルをはるかに上回る点数が存在していたことがわかってきました。実際のところ、我々も総タイトルが何点あったのか、全容を把握できていないのです。千タイトルは超えるだろうと言われています。なかには自分で作ったもの、子どもが作ったものも見つかっています。  加藤 自作のものまであったとは。  大串 それらを含めて、今のところ六二六点ほどの紙芝居の現物と所在(所蔵機関など)を把握しているので、当初から考えると、四〇〇点以上ぐらい増えています。  加藤 すごい数です。  大串 ですので、個人所有のものや自作の一点もののように、アクセスするのが難しいもの、これまで未発掘、未確認だった紙芝居を集積してもう一冊作ろうという話になり、『Ⅱ』ができたわけです。『Ⅰ』収録の紙芝居はどこかで見たことがあるような比較的著名なものが含まれますが、『Ⅱ』はほとんどが知られていない紙芝居ばかりです。また植民地で実演されていた紙芝居を収録したのも『Ⅱ』の大きな特徴です。  加藤 お寺が使用していた説教用の紙芝居があったのが興味深いです。  大串 ほかにも幼稚園が所蔵していたものや、台湾で発行された紙芝居も『Ⅱ』には入ってきますから、『Ⅰ』の続きというよりは、むしろまったく新しい本という言い方もできると思います。紙芝居を収集してきた研究活動の経緯、扱っている作品の幅も含めて、まったく別物なのです。  加藤 寄贈されたものから、皆さんが収集したものへ、という変遷があったわけですね。  何より、上演された空間とそこで観ていた観客がいたことへの意識を投射した上で、実際に上演した地域を調べてみようというコンセプトが、『Ⅱ』ではより活かされたのではないでしょうか。  大串 空間と観客に対する理論的な問題提起は『Ⅰ』の時からすでにありましたが、『Ⅰ』の段階ではまだ地域調査そのものが進んでいませんでした。もちろん多くの課題はありますが、地域調査の進展による実演者・観客の分析の一端は『Ⅱ』には表れていると思います。  大串 戦時下における紙芝居の話をする前に、そもそも紙芝居が大衆、特に子どもたちにとってどんなものだったかを押さえておく必要があります。  まず、紙芝居の原型となるものは幕末くらいからあったようで、割り箸のような棒に紙で作った人形のようなものを貼りつけてクルクル回すもので(立ち絵という)、最初期はそれを紙芝居とも呼んでいました。  加藤 私が小学生のとき、下校中におじさんがそうやって上演しているのを見たかもしれません。  大串 そこから紙芝居は形を変えていき、やがて一九三〇年代には、A4から多くはB4ぐらいの大きさの紙に絵を描いて場面転換で引き抜く、我々がイメージする紙芝居のスタイルが出来上がります。そこで演じられたのが「化け猫」や「継子いじめ」の物語、また冒険活劇、それこそ『黄金バット』などの作品で、路地や広場、街頭で上演されたことから、「街頭紙芝居」と呼ばれていました。  この街頭紙芝居の特徴は、すべて手書きの一点もので、それを貸元が紙芝居業者(いわゆる「紙芝居のおじさん」)に貸すのです。しかも裏にセリフが書かれていなくすべて口伝。ここが大量印刷で裏にセリフの書いてある戦時中の紙芝居との大きな違いです。  加藤 口伝とはすごいですね。  大串 街頭紙芝居は基本的に作品の上演自体が目的ではなく、飴やせんべいを売って、買ってくれた人がおまけで紙芝居を観られるスタイルです。また、一点ものの口伝が意味するものとして、大体のあらすじは画面との関係でわかるものの、子どものウケが悪いと思ったらその場でセリフを変えることもあったようです。つまり、ライブ感が街頭紙芝居にはあったのです。  加藤 文字通り街頭を回る感じでいろいろなところで上演されたということ?  大串 そうです。ちなみに、一九三三(昭和八)年の警視庁による調査があって、一概にはいえませんが、ひと所におおむね平均四〇人位の子どもたちがいたみたいです。もちろん場所によってその数は変わるし、大人も観ていたということもありました。  また、一人の業者は一日に平均一〇ヶ所ぐらい回っていたようです。一回四〇人ほどの観衆がいたと想定すると、一日に四百人が観ていた計算になります。その業者が一九三三年――これは街頭紙芝居の最盛期にもあたる時代ですが――、東京市内だけで二千から二千五百人ほどいたようなので、そうなると一日おおよそ八十万の子どもが紙芝居を観ている。東京市の学齢児童の数(おおよそ七十六万人)を超えてしまうわけです。一九三〇年代、紙芝居はそれほど子どもたちに人気のあるメディアであったのです。その影響力に軍部や宗教家・教師たちが注目するわけです。  とはいえ、街頭紙芝居で人気だったのは、端的に言うと継子いじめや怪猫ものだったので、その内容は教育上よろしくない。  加藤 同時代のエロ・グロ・ナンセンスに通じるものがあった。  大串 さすがに子ども向けだからエロはありませんが、子どもはそういう「教育上よろしくないもの」の方が圧倒的に好きですから、紙芝居は子どもにとても人気のあるメディアであったのです。軍部や宗教家・教師たちとしては紙芝居人気に注目しながらも、同時にちゃんとした内容の紙芝居を作りましょうとなりますから、三〇年代が進むにつれて、教育紙芝居のようなものが作られる動きも起こっていくのです。  ここまでの話を整理すると、ライブ感、一点もの、低俗な内容。これが本来の紙芝居の姿でした。  加藤 重要なご指摘です。  大串 では、街頭紙芝居に比べたときに戦時中の紙芝居は何が特徴なのだろうかということは、紙芝居師でもあった故・鈴木常勝さんが問題提起しています。しかし、そのことを本格的に分析するためには、戦時中の紙芝居の内容だけでなく、誰がどういう場所で上演していたかがポイントになります。場所でいえば、隣組や部落会、町内会の常会などで、娯楽を企図して上演していたといわれていましたが、そこからさらに演じた人にまで踏みこんで分析していく必要があった。  このようにして、単に紙芝居の作品研究にとどまらずに、その先にある戦時中の、ある種の民衆像を捉えていくことが、我々の調査の要でもあったのです。  加藤 戦時下の大衆意識の分析ですね。それが『Ⅱ』の答えにもなっているという。  非文字資料という観点から、私が面白いと思った点についてコメントします。  近現代史の分野において非文字資料のインパクトをどう打ち出すか。これは難しい課題だと思います。なぜなら、近現代になれば写真技術は発達するし、絵画もそれ以前よりは残っているものが多いからです。  それに比べて近現代以前の非文字資料となると、たとえば水中遺跡である鷹島神崎遺跡から発掘された蒙古襲来の時の、蒙古船の一・七メートルの木製の錨。これが一つ見つかっただけで、一三世紀後半の大船団の規模感まで想定できるわけです。まさに水中考古学におけるインパクトが表れている事例です。  ところが、ここまでの大串先生のお話しをうかがっていると、紙芝居という一つの非文字資料を読み解いていくことで、実に様々なことが浮かび上がります。作品、実演者、観客によって構成されるインタラクティブな空間が三〇年代の街頭にあり、その人気によって東京市の学童人口をはるかに上回る観客を集めていた。そこに軍部は目をつけ、やがて国策紙芝居のような形で三〇年代後半にかけて展開されていく。非文字資料だから見えてくる説得力が戦時下の紙芝居研究のなかにあり、それは決して中世の非文字資料に劣らないインパクトがあることをしみじみ感じました。  それにしても、『Ⅱ』では作品と同時に、人に関して随分発掘されたのですね。どういう方が作り、上演にコミットしていたか。あるいは観客の反応を見ながらいかに書き直したかといったインタラクティブな部分、あるいは労働現場で上演されたものに対する研究会メンバーの方の辛口の評価なども含めて、非常に読みごたえのある一冊です。  大串 「いつでも・どこでも・誰でも」できる(演じられる)。これは同時代から言われていた紙芝居の特徴の一つなのですが、要するに、いい意味での安易さがあると同時に、映画や演劇、ラジオなどと異なり、演じる場所、そこに人が介在していることを示しています。  人が介在するということは、すなわち演者のキャラクターによって受け手側の作品に対する印象が変化していくことを示しています。では、大衆が紙芝居の演者ごとにどのようなインパクトを与えられたのか。この点については、今後も調査を続けていく必要がありますし、それは日本近現代史研究の文脈においては、いわゆるファシズムの時代における地域のサブリーダー研究ともクロスする部分です。  いずれにしても、人が介在するところにメディアとしての特性が表れているのが、紙芝居という非文字資料なのです。  加藤 納得です。  大串 非文字資料の他メディアとの関係でいえば、映画は特に日中戦争以降は圧倒的な人気をほこったので、当時の有力なメディアです。地域の青年団の資料を見ても、まずは映画が観たいのだ、と。とはいえ、映画の場合、当たり前ですが同じ空間に演じる人は介在していません。  人が介在しないという意味では、レコードや流行歌だと自分で歌うものだし、ラジオはもっぱら流れているものを聴取するのみです。  このように、広い意味での戦時下の非文字文化を並列させたときに、必ず人が介在していたのが紙芝居であり、そのおかげで電気が通っていないところ、それこそ鉱山や山岳地帯の炭焼の現場のような場所でも上演できた。  加藤 まさに、「いつでも・どこでも・誰でも」だ。  大串 その「誰でも」の部分でいえば、女性も演じているという点も紙芝居の個性だといえます。たとえば、工場文化運動で有名な大同毛織では演劇活動が盛んだったのと同時に紙芝居も人気があり、従業員の女工さんも演者として舞台に上がっていた。なかには普段無口な人や、はにかみ屋のような人もいて、そういう人たちも舞台上では活発に語っていたようです。  とはいえ、栃木県の記録を見ると、戦時中の巡回紙芝居が実施された回数は、同時期の巡回移動演劇や巡回映画に比べると少なかったので、その意味では同時代の大衆に求められていたものはやはり映画や演劇だったのです。この両者の関係を、民衆の戦争への向き合いかたの問題、つまり民衆意識の問題としてどう理解するかが大きな論点でしょう。  加藤 やっぱり映画や演劇は強かったんですね。  大串 戦時下において、たしかに映画や演劇が人気を集めていましたが、いかなる人が介在するかという文化実践者の特性といった問題、また地域の偏差がなく、農村部や鉱山のようなところに至るまであまねく実演されていた紙芝居がもっていた独自の役割は、今後も戦時下の紙芝居研究を進めていくことによって、さらに浮かび上がるだろうと思います。  この問題は同時に、当時の台湾や朝鮮のような植民地や占領地で日本独自の文化といわれた紙芝居が、在地の文化とどのようにぶつかったかまで視野に入ってきますから、ますます「いつでも・どこでも・誰でも」の問題は検討していかなければならない。  加藤 映画でも、音楽レコードでも演劇でもなく、なぜ紙芝居だったのか。これを検討する上で、「いつでも・どこでも・誰でも」と定義いただいたことで、普遍性のある文化だったということが、今回の研究を通じてくっきりと示されたと思います。  加藤 極東国際軍事裁判の検察側証人として、教育紙芝居協会の設立者で、後には宗教学者となる佐木秋夫が呼ばれましたが、弁護側からの反対尋問で「ドイツをはじめ、各国ではこういった国策紙芝居はなかったのですか? 珍しいのですか?」といったようなことを尋ねていました。このような、紙芝居を使ったプロパガンダ工作は日本独自のものだったのでしょうか?  大串 日本独自と言われています。  そもそも、戦時中に紙芝居は日本独自のすごい文化だ、という見方もあります。一説には、これは絵巻物の伝統を引き継いでいるのだそうです。  加藤 言われてみればそうかもしれませんね。  大串 ただし、紙芝居の形態は三〇年代になってから完成するわけですから、画面構成には若干映画の影響が入っていると思われます。画面がコマ割りされているので要するに物語絵本とは違い、映画のように動きがある。  加藤 映画の絵コンテか。あるいは漫画のコマ割りにも通じているといえそうです。  大串 まさに。ある意味で漫画動画的ともいえる。そこに語りが入るという文化形式は、遡るとおそらく絵巻に辿りつくだろうという議論もありえるだろうと思います。  ただ残念ながら戦時下の紙芝居は具体的にどうやって作られたか、つまり紙芝居の作成過程はまだよくわかっていません。  加藤 そうなんですか?  大串 例えばひとつの物語があり、それを紙芝居にするには一五枚とか二〇枚とかで画面を描きます。つまり、一つの作品が一五場面、二〇場面に割られて構成されますが、どうしてそこで割ったか、どういう意図で割られたかがよくわかっていない。コマ割に表現された製作者の意図やねらい、その効果といった論点もふくめて、製作過程がいまだに不明なのですね。  加藤 なるほど。  大串 ちなみに同時代の調査でも、どうもジャワあたりに紙芝居のようなものはあるらしいという調査もありますが(ジャワの「ワヤン・ベベル」が注目されている)、いずれにしても紙芝居は日本独特のものだと言われている。  こういう類の文化形態は、ヨーロッパだと映画やパペットにあたるのではないでしょうか。  加藤 たしかに。ヨーロッパは指人形劇などを盛んに上演しているイメージです。  大串 あるいは、アメリカだとこれに代わるものはポスターや映画になります。  加藤 言われてみれば、戦意高揚のポスターなどが有名ですものね。  大串 または、写真を簡単に説明するみたいなものもありますけれども、それだと絵解きと大して変わらない。  そうは言いつつ、国策紙芝居の中には絵解きそのものの、今でいうパワーポイントのような作品もあります。例えば『大政翼賛』という作品がそうです。  加藤 大衆は国のために何をすべし、みたいなことを教え込ませる。  大串 そういったものは本当につまらない。戦時下の紙芝居となるとそういうものまで含んでしまうので一概に言えませんが、ただ、物語形式のものは日本独自の文化と言えるのではないでしょうか。  そして、紙芝居がこのようなスタイルに至る上で映画から受けた影響は見逃せないので、三〇年代に形を整えたというのは、ある種必然だっただろうと思います。その同時期ぐらいに満州事変が起こり、日本は戦争の道に突き進んでいきますから、紙芝居の歴史というのは日本の戦争の歴史とほぼ歩調を揃えていた、「紙芝居の時代」と「戦争の時代」は同時代であったとも言えます。  加藤 国策紙芝居について私なりにいろいろ調べてみましたが、一点不思議に思ったことがありました。それは、先ほども名前を出した佐木秋夫が、極東国際軍事裁判の検察側証人として、開廷直後といってよい一九四六年六月二一日に呼ばれています。そして、かなり重要な証人として扱われていることです。海後宗臣、大内兵衛、瀧川幸辰、前田多門、伊藤述史、池島重信ら錚々たる顔ぶれの並びに名前を連ねていました。  もちろん、戦時中における国策紙芝居普及のトップとして、日本の軍国主義化推進のために、紙芝居によって教育の画一化を図っていた主要人物とみなしていたところもあるのでしょうが、私なりに推察すると、佐木が証言台に立った時点で検察側は日本における軍国主義教育の広がりについてコアの部分を立証できる証人をほとんど集められておらず、その代わりとして日本が国家としていかなる形で教育の領域で思想を統制したのかを追及したかった。そのために佐木を証人として立たせたのではないか。  それに対して弁護人側は、あくまで国家が主導して国策紙芝居を作らせたのではなく、大政翼賛会、あるいは海軍内の一部署の依頼など、多様な製作主体があったと言わせたかったようです。つまり、国家がウルトラナショナリズムのもと、全て右向け右で国策紙芝居によるプロパガンダを行っていたのではなく、それぞれの組織が各々の考えに沿って国策紙芝居の製作を依頼していたという実態を佐木の口から正確に言わせようとしました。  では、当の佐木はというと、はじめに「国家が~」と答えてはいましたが、結局は飴などを子どもに売って上演するものもあるとして、敗戦直後の記憶と混同してしまっているのかもしれませんが、街頭紙芝居に近い形で行われていたことをも証言しています。ですから、必ずしも検察側証人として、期待された役割を貫徹できていなかったようにも裁判の速記録からは読み取れます。  そして、検察側は佐木に証言させるのと同時に、その場で紙芝居を演じるよう要請し、佐木は実際に演じます。ここで上演されたものの書き起こしは速記録にも残されていますが、その内容は、なぜ日本が日米戦争をしなければならないのかということを説明するものでした。しかし、法廷でそれを聞いた関係者がシーンとしてしまう様子もわかり、おそらく佐木が上演したのは、先ほど大串先生がおっしゃったような、いわゆるつまらない作品の一つに当てはまるようなものだったのでしょう。  同時にそれは、今回の『Ⅱ』で論じられた、作り手、演じ手、観客の反応というインタラクティブな部分というのが、極東国際軍事裁判の場でも表れていたようにも思えて、面白い発見でした。  大串 今のお話しについては論点が多岐にわたり、特に戦後にまで話を広げてしまうと議論が混在してしまうので、一旦切り分けた上で発言をします。  極東国際軍事裁判の場で佐木秋夫が上演したのは、たしか『戦争してゐるのだ』という典型的な国策もの、戦争の論理を正当化した紙芝居でしたね。  加藤 そうでした。一九四一年七月刊行の。  大串 それは本当につまらない。まさにパワーポイントそのものです。  加藤 おっしゃるとおりで、速記録でも固い術語がずっと並びます。  大串 ここまでつまらない作品の例がいくつか挙がりましたが、それとは逆に、戦時下に作られた紙芝居のなかには大衆や子どもたちにウケているものもあって、それが例えば『チョコレートと兵隊』です。これは映画版もあります。『チョコレートと兵隊』は『菊と刀』のルース・ベネディクトや、のちのジョン・ダワーも注目しています。総じて「日本の戦争映画は戦意高揚映画として観ることができなかった」と評しています。映画版と紙芝居版には若干の違いがありますが、紙芝居版『チョコレートと兵隊』も、戦場にいる父親と家族の交情をテーマにしていました。  果たして、佐木はつまらない『戦争してゐるのだ』ではなく、人気の『チョコレートと兵隊』を上演していたら、後年どのように評価されていただろうか。その仮定に沿って言えば、実はこの本でも掘り下げきれなかったことですが、「紙芝居にとって戦争協力とは何か」、という問題に行き当たると思います。  たしかに紙芝居が戦意高揚に一役買った部分がある一方で、パワーポイントみたいな紙芝居をやることへの忌避感も同時にあった。なぜなら、紙芝居を作っている側は、教員にしろ、絵を描く人にしろ、少なからず「よいもの」、大げさに言えば「芸術」を作っているという意識があったからで、そうすると、『チョコレートと兵隊』のような物語を描くことによって、国民に戦争をしている覚悟のようなものを伝えたかったのではないか。  それにもかかわらず、国家の機関から発注がかかるのは、なぜ貯金をしなければならないのかといったようなこと、つまり「国策」をわかりやすく説明した紙芝居、つまり国策の絵解きです。そうした国策の絵解き的なものと、芸術的な表現をしたいという葛藤が、ある局面では戦争協力という自覚にもなるし、別の局面では国家によって自分の思いを曲げられたとも映る。それを一口に転向と呼ぶか、戦争協力と呼ぶか。戦時下の紙芝居はちょうどその「あわい」の部分に存在していた文化なのです。  大串 戦争協力という意味でいうと、今回、我々の研究グループが調査した人物の一人に秋田の藤田渓山というお坊さんがいます。藤田は素朴に、国民である以上は戦争協力します、という態度を示しており、地域における翼賛運動のリーダーともなっていた。  その藤田が作った紙芝居が『空白の遺書』という、南京戦の時に飛行機で墜落した軍人の妻と家族の話です。ところがこの紙芝居を秋田のとある工場で演じるや、そこの工員がみんな泣いてしまった。泣かせてしまったら戦意高揚どころではないだろうと、藤田のところに工場で実演を見ていた(内偵していた?)特高警察がやってきたというエピソードがあります。藤田の交友関係には金子洋文という秋田のプロレタリア文学運動家がいたという背景もありましたが、いずれにしても、特高警察から睨まれるような内容にも解釈できる紙芝居を作った。  加藤 それほど感情に訴えかける紙芝居だったのですね。  大串 当の藤田には戦争協力している自覚があったから、戦後になると私は愚かだったという回想を残しています。  加藤 佐木が『チョコレートと兵隊』や『空白の遺書』のような、人びとの感情に訴えかける紙芝居を実演していたら、それこそ検察側としても、紙芝居の大きな影響力を法廷で実証できたかもしれませんね。しかし、内容がペラペラの『戦争をしてゐるのだ』だったので、検察側が受ける印象も「ああ、こんなものか」となったのかもしれません。  大串 先ほども言ったように、紙芝居は日本独自の文化だったから、検察側は紙芝居そのものがわからなかったみたいです。紙芝居は英訳すると、どうなりますかね。「paper theater」?結局、東京裁判では「Kamishibai」と表記されるようになりましたから。また紙芝居は、英語どころか、中国語やハングルにも訳しづらい。  我々も取材を受けるときに、「紙芝居は戦時中のプロパガンダ装置だったのだ」と言われる。その指摘自体間違いではありませんが、では、そもそもプロパガンダとはなんなのかと考えたときに、そこには幅があるわけです。それこそポスターみたいに、一目見てプロパガンダだとわかるものと違いますよね、紙芝居は。ルース・ベネディクトや藤田渓山の事例を考えれば、戦争忌避の感情を呼び起こしてしまう、その意味では戦時に向けてのプロパガンダ性も裏切ってしまうような性格を有してもいるのです。  プロパガンダというものは突き詰めると「わかりやすさ」です。その典型がナチス・ドイツやアメリカ型のそれで、人びとの感情をストレートかつ単純に喚起させていた。ところが、日本のいわゆる戦争映画を観ても、わかりやすい感情を喚起させない。それは紙芝居も同様です。  加藤 たしかに陸軍ものとかはその典型です。  大串 この「わかりやすい感情」と戦時のプロパガンダの特徴をどう考えるかという視点は、現在の戦争の話ともつながります。今は社会の中に、戦争に対するわかりやすい言葉が溢れている。イランは「悪」、トランプは「正義」みたいな簡単な図式をつくり、すべてのものの意味のふくらみ、問題を考えていくための複数の視点を削いでいくやり方で。そういう意味で、現在は全体的に戦争の仕方がアメリカ型になっていると言えますでしょうか。  加藤 そうでしょうね。  大串 果たして、日本においてそういうわかりやすさが戦争動員に寄与していたかどうかは、今後、戦時下ポスターの研究などを通じてさらに検証していく必要がありますけれども、映画や演劇、紙芝居というものは総じて動員力が弱かった。作品を通じて戦意高揚をうながし、国民の統合をはかる役割を果たしたというよりは、どちらかというと、「戦場で苦労している兵士を家族で支えましょう」という物語を通じて、「労苦をわかちあう感情」というエモーションの部分で戦争への社会的基盤を作っていたのです。  加藤 むしろ同情を誘った。  大串 仮に日本国内の戦意を煽りたいのであれば、アメリカのようにわかりやすい表現を用いただろうと思います。  加藤 まさに、戦意高揚とは何か、ですね。翻って紙芝居にとって戦争協力とは何だったかという議論に結びつきます。  大串 強い言葉が現代の戦争を支える基盤だったとして、それを戦時中の日本の文化史に置き換えて考えてみると、案外、強い言葉が連続したものはつまらなくて、上すべりの言葉となっていたというか、実際、それによる支持はなかなか広まらなかった。逆に、アメリカがどうやって民衆の支持(あるいは戦争への共感)を集めていたか、アメリカにおける戦時プロパガンダ研究も今一度見直す必要がありそうです。  その意味で紙芝居研究は、「戦争支持」の論理の説得性を、民衆あるいは大衆の生活意識とのかかわりで論じる、こうした重要な問題を提起しているのではないか、と思います。もちろん、植民地ではさらにそこに「日本統治」の正当性がかぶさってくるのですが。  加藤 戦時中の文化史を精緻に分析したときに何が見えてくるか。従来ですと、国家が国論を二分するような強い言葉によって動員をはかっていたという見方をされていたけれども、実はそれが違った。その一つの例が、戦時下の紙芝居研究から見えてきました。(おわり)  ★かとう・ようこ=東京大学名誉教授・日本近現代史。著書に『戦争まで』など。  ★おおぐし・じゅんじ=国立歴史民俗博物館教授・非文字資料研究センター客員研究員・日本現代史。著書に『「銃後」の民衆経験』など。

書籍

書籍名 国策紙芝居からみる日本の戦争Ⅱ
ISBN13 9784585370253
ISBN10 4585370250