2026/07/03号 6面

通貨に信用を刻印する

通貨に信用を刻印する 白川 方明著 小栗 誠治  本書は中央銀行や金融の問題を本質にさかのぼって論じた体系的かつ包括的なセントラル・バンキング論であり、この分野の第一級の教科書として高く評価される。まず本書のタイトル「通貨に信用を刻印する」が印象的である。これは歴史家のニアル・ファーガソンの言葉だそうだが、セントラルバンカーの信念と哲学を的確に表明している。「通貨に信用を刻印する」という作業にはその国、その社会の「総合力」が反映されるが、本書はそうした「総合力」を高めるためにはどうすればよいのかを理論、歴史、実務を有機的に結びつけて解き明かしている。  本書では、著者が日本銀行総裁当時に自問自答を重ね、悩み抜いてきた問題が率直に語られている。例えば次のようなことである。金融政策の限界を言うこと自体が金融緩和の効果を減殺するとの主張に対し、中央銀行は限界や副作用については発言を控えるべきなのだろうか。物価下落は緩やかであっても、あらゆるコストを払ってでも回避しなければならない現象であろうか。金融政策と財政政策は協調すべきとの議論が広がる中で、財政状況が深刻な場合、協調がやがて財政支配の状態に陥る危険はないのか。「時代の空気」が極端に一方向に傾いてしまった時、中央銀行はどのように行動すべきか。中央銀行の独立性と独善の境界線はどの辺にあるのか。いずれも中央銀行の本質にかかわる重要な問題であるが、著者は主観をかなり前面に出しつつこれらの困難な課題を正面から検討している。  本書の扱うテーマの範囲は広いが、その中でも注目すべき論点と見解をいくつか紹介しよう。  〔一〕中央銀行の機能のうち、最も根本的な機能は中央銀行通貨の発行である。中央銀行通貨が誰からも受け取られるのは、突き詰めて考えると国家への信認が背後にあるからであり、これを最終的に担保しているのは財政の持続可能性である。さらにその背後にあるのは、財政の持続可能性を支える政治や国民の意思である。  〔二〕中央銀行の目的を「物価の安定」のみに絞るのは狭すぎる。その役割は「安定的で効率的な金融のインフラの提供」である。  〔三〕非伝統的金融政策は、現実を率直に観察する限り、効果は限定的であったというのが公平な評価である。それよりも同政策について真に問われるべき問題は「極めて緩やかな物価下落であっても、中央銀行はあらゆるコストを払ってでも金融政策でその解消を目指す必要があるか」ということである。  〔四〕日本の直面した大きな経済的課題は潜在成長率の緩やかな低下であり、物価の緩やかな下落ではなかった。デフレが日本経済の最大の問題であるという課題設定がなされたことは、日本にとって大きな不幸であり、あえて言うと致命的な失敗であった。  〔五〕中央銀行の独立性の最終的な拠り所は、独立性を規定した法律にあるというより、そうした法律を成立させた国民の基本認識であり、さらにはそれを支える政治や社会の「力学」である。  〔六〕中央銀行総裁に求められる要件は、金融政策決定の最終的な責任者として強い責任感の持ち主であり、短期的な不人気に耐える勇気を持つ必要があること、またコミュニケーターとして説明を通じて多くの国民から信頼される誠実性である。  〔七〕中央銀行当座預金の付利制度は金利コントロール上非常に有効な手段であるが、同時にこれによって中央銀行のバランスシートの拡大に対する歯止めがなくなったという意味で、パンドラの箱を開けるような制度であった。  〔八〕為替レートの介入に関して、海外では中央銀行の責任で行うケースが多い。日本のように金融政策と介入を別々の当局(日本銀行と財務省)が担うと、金融政策の運営を巡って潜在的に混乱が生じ得る。  本書では、中央銀行通貨の信認の根源に財政の持続可能性があることや独立性に関して「時代の空気」の支配をいかにして防ぐかということについて何度となく強調しており、この点に著者の並々ならぬ思い入れが感じられる。  終章には、「通貨に信用を刻印する」ために、中央銀行や政府あるいは広く社会全体が取り組むべき10の提言が示されている。それらは、多面的な取り組みの必要性、財政の持続可能性への信認確保の重要性、中央銀行の独立性とアカウンタビリティの重要性、歴史に学び歴史を伝える努力の重要性などである。評者もこれらの提言には共感と納得を覚える。  現代の中央銀行研究は、もはや単なる金融政策論ではない。近年の中央銀行を巡る議論は、「なぜ中央銀行は存在するのか」という制度生成論、「貨幣とは何か」という貨幣論、「最後の貸し手」をめぐる金融安定論、さらには「国家と市場の関係」を問う政治経済学へと拡張してきた。本書もまた、そうした幅広い射程を備えた一冊である。本書が経済・金融に関心ある人のみならず、一般の人にも広く読まれることを望みたい。(おぐり・せいじ=滋賀大学名誉教授・中央銀行論)  ★しらかわ・まさよし=青山学院大学特別招聘教授。二〇〇八年四月~二〇一三年三月、第三〇代日本銀行総裁。著書に『中央銀行』など。一九四九年生。

書籍

書籍名 通貨に信用を刻印する
ISBN13 9784296126620
ISBN10 4296126628