2025/05/30号 2面

ライプニッツの最善世界説

ライプニッツの最善世界説 ポール・ラトー著 枝村 祥平  ライプニッツと聞いて、なにを連想するであろうか。天才列伝の頂点の一角をなす人物。ニュートンと同時期に微分・積分を考案し、解析学で優れた記号法を編み出した数学者。こうした連想もよくなされ、ライプニッツの哲学は数学的だという印象を持つ人もいる。論理的に構築された精緻な形而上学の体系だが、切れば血が出るようなアクチュアリティはどうか。優れたライプニッツ研究書を残したバートランド・ラッセルも、ライプニッツの倫理学を高くは評価しなかった。  しかしこれは、ラッセルが極めて明敏な頭脳をもちながら、短期間で若年期にライプニッツ研究をまとめざるを得なかったがゆえの、早合点ではないだろうか。ラッセルは傑出した数理的能力を発揮しただけでなく、戦時中の反戦運動、戦後の反核運動に携わった実践人だったが、ライプニッツの実践哲学に十分配慮できなかったのは残念である。ライプニッツは、ソクラテス以来の知徳一致の思想を真摯に受け止め、何らかの善を表象することと、それを欲求しその実現のために働きかけてゆくことのかかわりを深く考察した。そしてライプニッツの哲学体系は、学問研究のみならず内政・外交にも多忙だったライプニッツ自身の実践を支えた。幸運なことに、近年ライプニッツの神学・精神哲学・自然学と実践哲学・幸福論とを密接に結び付けた良心的な研究があるが、本書はその典型といえる。  ライプニッツはこれが決定版であると断言できる哲学的な著書を残さなかったと言われている。『弁神論』は生前に出版された大著だが、プロテスタントとカトリックの調停という文脈を背負っており、多数のセクトについての詳論に紙面が割かれすぎているきらいもある。加えて後世は、ライプニッツの哲学的テキストの編集に思いのほか時間をとられてしまった。今日われわれが知る定評のある哲学的テキストをほぼ網羅したゲルハルト版は、1875年以降にようやく順次出版され、ハイデッガーを魅了した。そして20世紀には、ゲルハルト版にも漏れてしまった哲学的テキストがアカデミー版に組み入れられ、未だに編集が続いている。そうした事情もあり、ライプニッツの体系を再構成することには特別な困難が伴うが、20世紀後半以降の研究者たちは困難を乗り越えて膨大なテキストを渉猟し、議論の再構成を試みている。本書の著者ラトーはそういった研究者たちの中でも最も成功した一人である。  哲学史をかえりみると、大哲学者の思想は何世紀も後の突出した注釈者を待って流布することがある。例えばアリストテレスもまた、イブン=ルシュドないしアヴェロエスを必要としたといえるのではないだろうか。そして、何百年続いた学派の開祖となり、テキストが学派の人々によって比較的整然とまとめられたアリストテレスでさえそうなのだから、ライプニッツ哲学の再構成はより重要なものと言わざるを得ないだろう。  ラトーはフランスを代表するライプニッツ研究者である。評者は必ずしもフランスがライプニッツ研究でアメリカなどを凌駕すると考えるわけではないが、彼のライプニッツ研究をみてみると、中世から続く英語圏と大陸との好対照を再確認できるように思われた。中世パリ大学で重きをなしたトマス・アクィナスは、その比類なき体系性により今日でも敬意を集める存在である。一方、彼を乗り越えようとしたブリテン島の俊英たち、ドゥンス・スコトゥスやオッカムは論点を絞ることによって、アクィナスを凌駕する緻密な議論を展開しようとした。そのようなコントラストは、今日の哲学史研究にも見出すことができるのではないか。確かにライプニッツ研究の個別論点での論理の積み重ねは、アメリカなりイギリスなりの研究者のほうに分があるかもしれない。ただ、確かに北米はアダムズやラザフォードなどライプニッツ形而上学の体系的再構成に成功した研究者に恵まれてきたが、それでも本書のように体系的でしかも幸福論をも十全に論じた研究書はなかなか例をみない。また本書は、ライプニッツを18世紀に(時に批判的に)受容したフランス出身の哲学史家によるものだけあって、18世紀以降のライプニッツ受容史も詳細に論じられている点が興味深い。  ラトーによれば、ライプニッツは「過去に満足しなければならないとしても、現在の諸事物の状態に決して満足してならず、これを変革し、悪を除去し、将来における善を促進するように努力しなければならない」と我々に教えている。一方で彼は、日本で講演をしたとき、ある学生からどうして3・11が可能世界のうち最善のものに含まれているのかと質問された、とも告白している。  ラトーは最善とパラダイスを対比する。パラダイスとは異なり、最善の世界は物事を改善する余地を残す。ここで連想されるのは、プラトンの『饗宴』である。ソクラテスは、神々、知恵を愛する者、無知蒙昧な者という三者を対比する。我々は神になれないが、神々と違い絶えず知恵を愛し獲得して行くことができる。アリストテレスにも同様の思想はある。彼は共同体を必要としないものは神か野獣だと書いた。神は絶えず満ち足りた存在ではあるが、共同体を通じて互いに協力し切磋琢磨する機会を持たないのである。  本書の最後も、パラダイスにたどり着いたかのような終わり方にはなっておらず、ライプニッツ哲学がある意味では18世紀の時代精神との相性が悪く十分に受容されなかったことを冷静に伝えて終わっている。ただ、著者の序文にあるとおり、それは21世紀におけるライプニッツ哲学の重要性を否定するものではない。  本書にあるように、ライプニッツの愛概念もまた、彼の「最善」観と関わっている。ライプニッツは人間の幸福と神との関係を大いに認めつつも、ある種の神秘主義者から距離を置き、単純な神との合一に至福を求めたりはしない。至福は全面的な結合のうちにも完全な所有のうちにも存しないというのである。愛は純粋な他者に対する配慮である。他者を手段とする接し方は勧めてはいないが、ライプニッツは愛が主体にとっての快をもたらすことも認め、純粋な滅私の利他を説くことからも距離を置く。(酒井潔・長綱啓典監訳)(えだむら・しょうへい=明治大学教授・哲学・倫理学)  ★ポール・ラトー=フランスの哲学史家。パリ第一大学准教授(Maître de conférences)。著書に『ライプニッツにおける悪の問題』など。著者と訳者たちの間には実質的な交流がある。一九七四年生。

書籍

書籍名 ライプニッツの最善世界説
ISBN13 9784862854292
ISBN10 486285429X