2025/10/24号 1面

20世紀のオックスフォードでメタ倫理学はいかに発展したか 上・下

<メタ倫理学の展開を〝メタ〟的視点で描く>佐藤 岳詩著『20世紀のオックスフォードでメタ倫理学はいかに発展したか 上・下』(勁草書房)を読む/【評=飯盛 元章】
<メタ倫理学の展開を〝メタ〟的視点で描く> 佐藤 岳詩著『20世紀のオックスフォードでメタ倫理学はいかに発展したか 上・下』 (勁草書房)を読む/【評=飯盛 元章】 佐藤岳詩さん(専修大学文学部教授)が『20世紀のオックスフォードでメタ倫理学はいかに発展したか 上・下』(勁草書房)を上梓した。二〇一七年刊行の『メタ倫理学入門』の姉妹篇にあたり、各時代の背景や文脈を押さえながらオックスフォードで発展した二〇世紀のメタ倫理学を論じる。本書の刊行を機に、飯盛元章さん(中央大学文学部兼任講師)にロング書評をお願いした。(編集部)  佐藤岳詩著『20世紀のオックスフォードでメタ倫理学はいかに発展したか 上・下』(勁草書房)。本書は、まさにタイトルどおりに「二〇世紀のオックスフォードでメタ倫理学はいかに発展したか」について丁寧に辿っていく力作だ。  周知のとおり、オックスフォード大学は、イギリスを代表する名門大学である。二〇世紀のイギリスにおいて、このオックスフォード大学が、メタ倫理学と呼ばれる分野の研究拠点となっていた。私たちがふつうイメージする倫理学は、たとえば「人はどのように行為すべきか」といった問題を扱うような学問だろう(こういった研究をする倫理学は、規範倫理学と呼ばれる)。メタ倫理学は、そのような倫理学においてもちいられている概念そのもの(「べき」や「善」など)を明確化することを試みる学問だ。一階の倫理学に対して、二階の倫理学のポジションに立つのがメタ倫理学である。  本書は、章ごとに各時代の倫理学者を取り上げ、その時代のメタ倫理学の展開を整理していく。各章の冒頭には、その時代のイギリスやオックスフォード大学を取り巻く状況についての簡潔な解説が置かれている。また、その先の各節において倫理学者が取り上げられていくことになるが、そこでも、まずその倫理学者の経歴が簡潔に解説される。大学を取り巻く状況、人物ど うしのつながりなど、歴史的な文脈を必要な範囲でしっかりと踏まえたうえで、いよいよ思想内容へ……。そういった構成になっているのが特徴だ。本書は、たんに学説が並べられただけのカタログではなく、時代状況や文脈を補いながらメタ倫理学の発展を追いかけていくドキュメンタリーのような本である。近年、分析哲学を哲学史的な観点から捉えなおす研究が盛んにおこなわれているが、本書もそうした潮流に属す一冊だと言えるだろう。 ***  もっとも、本書の中心的関心は、それぞれの倫理学者の思想内容そのものを明らかにすることにある。各節では、それぞれの倫理学者について、豊富な引用とともに詳細な解説が加えられていく。最後にかならず「小括」として、その倫理学者に関する重要な論点がまとめられており、読者にとって非常に親切な構成となっている。各章ではこのようにして何人かの倫理学者が取り上げられていき、その最終節では、彼らに対してどのような評価がなされているのかがまとめられる。  本書は、こうした形式に従って、いわば淡々と進んでいく。どの倫理学者に関しても、おおよそおなじ文量で解説を加え、だれかに肩入れすることなく、すべてをおなじ熱量で語りだしていく。著者自身の主張・存在は完全に透明化し、ただプログラムが淡々と展開していくかのように感じさせるのだ(おそらく相当な準備がなければ、このような書き方はできないだろう)。本書は、メタ倫理学の歴史的な展開そのものを、俯瞰的・メタ的な視点から描き出したものだと言える。  全体の流れを確認しておこう。本書は、メタ倫理学の出発点とされるG・E・ムーアの『倫理学原理』の紹介からはじまる(第1章)。ムーアは、イギリスのもう一つの名門大学であるケンブリッジ大学に所属していたが、メタ倫理学の確立に貢献したという点で、オックスフォードの展開を辿る本書にとっても外すことのできない人物である。ムーアにとって、倫理学は、「善とは何か」を問う一般的研究を意味した。そして、この「善」そのものは定義不可能であるが、「何が善いものであるか」は、私たちは直観によって把握できるのだとした。このように道徳的な直観を重視した同時代のオックスフォードの倫理学者に、H・A・プリチャードとW・D・ロスがいる。本書は、一九〇〇年代から三〇年代に活躍したこれら三人の倫理学者の紹介から出発する。  続いて、一九三〇年代から五〇年代に活躍した倫理学者として、A・J・エアとJ・L・オースティンが取り上げられる(第二章)。彼らは、先行する世代の直観主義に含まれる形而上学的側面を批判し、日常的な言語に密着して道徳について考察することを試みた。後の世代への影響という点で言えば、エアは決定的な主張をした。エアにとって、たとえば「金を盗むのは不正だ」といった道徳判断は、たんに話し手の情動を表現したものにすぎない(情動主義)。したがって、たんなる情動の発露でしかない道徳判断は、論理的なことがらを扱う哲学の対象にはならないのである。エアは、「倫理学は心理学の一部門になるべきだ」という破壊的な主張をした。 ***  こうしたエアの情動主義に対抗して、一九五〇年代から七〇年代に活躍した倫理学者たちは、道徳判断のうちに客観性を見いだし、再度、倫理学を復権させることを試みた(第三章・第四章)。ここでは、R・M・ヘア、P・R・フット、G・E・M・アンスコム、I・マードックが取り上げられる。ヘアは、普遍的な道徳と個人の自由を調和させた倫理学の構築を目指した。彼の「普遍的指令主義」は、オックスフォードにおいて強い影響力をもつにいたり、それに対して、フット、アンスコム、マードックらはそれぞれの観点から批判を展開した。  さらに、一九七〇年代から八〇年代にかけて活躍した倫理学者として、B・A・O・ウィリアムズ、J・L・マッキー、D・ウィギンズ、J・マクダウェル、S・ブラックバーンが取り上げられる(第五章・第六章)。彼らは、先行する世代ほど強い客観性は求めず、私たちの主観性との関わりのなかで客観性がどのように成立するのかを考察した。  最後に、一九八〇年代から二〇〇〇年代に活躍した倫理学者としてD・パーフィットが取り上げられる(第七章)。パーフィットは、ウィリアムズ以降の客観性の地位を引き下げるような議論に反対し、客観的理由が実在するという主張を展開した。  以上、本書の全体的な流れをごく簡単に見てきた。A・N・ホワイトヘッドの哲学を中心に研究している私にとって、本書に登場する倫理学者の多くは初めて目にするものばかりでとても刺激的であった。ホワイトヘッドは、ケンブリッジ大学出身(ムーアより一〇歳ほど年上)で、晩年に独自の形而上学体系を構築した哲学者である。そんなホワイトヘッドを専門とする私からすると、「メタ倫理学」も「オックスフォード」もあまり馴染みがなく、学ぶところが多かった。ここからは、私がとくに興味深く感じた点を二つ紹介したい。  まず一つ目は、マードックの「ヴィジョンの倫理学」に関してである。本書に登場する倫理学者たちは、いずれも分析哲学の手法をもちいている。そのため、概念の分類が細かく、議論のステップも細かい印象を受ける。なぜ、なんのために、今こんな議論をしているのか……。門外漢である私には、議論の方向性も意義もすぐにわからなくなってしまう。だが、マードックは、そうした倫理学者たちとはどこか異なる印象をあたえる。ストレートに、魅力的な概念・世界像をあたえてくれるのだ。  たとえば、マードックは、私たちが実在をとらえる働きを「愛」と呼ぶ。彼女自身の言葉を引こう。「芸術と道徳の本質は同一である。それは愛である。愛とは個別的なものの知覚である。愛とは自分以外の何かが実在であることの、極めて困難な理解である。愛は、それゆえに芸術と道徳は、実在を発見することである」。芸術と道徳は、基本的におなじ働きに基づいている。それは実在へ向けられた愛だ、と言うのだ。こうした筆致からは、他のメタ倫理学者たちとは異なる魅力が感じられる。それは、マードックが倫理学者であると同時に小説家でもあること、また、彼女がサルトルやヴェイユといった大陸系の哲学者から影響を受けていることに由来するのかもしれない。  マードックの主張について、もう少し詳しく確認しておこう。彼女が乗り越えを目指すのは、「選択」を重視する倫理学だ。先ほど見たように、エアの情動主義の出現によって、倫理学は壊滅的な状態に陥った。それを受けて、ヘアの倫理学が登場する。ヘアは、エアの情動主義を避けようとするあまり、人間の内面を扱うことを避け、外面的に扱う方向に進んでいった。倫理的な場面における人間を、行動主義的な観点に立って外側から分析し、その人の「選択」に着目するのである。このようにして、倫理学は、選択中心のものになっていった。  これに対して、マードックは、倫理学にとって重要なのは、外側から観察できる「選択」ではなく、私の内側で生じる、世界に対する「ヴィジョン」だと主張する。どのような行為を選択するか以前に、世界がどのように見えているかというヴィジョンこそが重要だ、と言うのだ。  たとえば、仕事で急いでいるときに、目の前で子供が転んだとしよう。このような状況設定において「人はどのような行為を選択すべきか」と考えるのが行為重視の倫理学である。だが、マードックにとって重要なのは、選択以前に、あなたにその光景がどのように見えているか、という点だ。単なる面倒な場面に映っているかもしれないし、手を差し伸ばさずにはいられない痛ましい場面に映っているかもしれない。私たちは、価値中立的な、倫理的岐路にまず立たされ、その後で熟考のすえに倫理的な選択をするのではない。人は、それぞれの視点から、「どのようにすべきか」といった価値づけがなされた光景をはじめから見ているのである。先ほどの例の場合、手を差し伸ばさずにはいられないものとして子供の転倒をとらえている眼差しのほうが、道徳的に優れたヴィジョンであると言えるだろう。この道徳的なヴィジョンが成り立つための重要な契機となるのが、先ほど触れた「個別的な実在へ向かう愛」である。ここでの愛は、こちらから能動的に向けるようなものではない。実在に対して、不意に愛を傾けるような瞬間が訪れるのだ(ここには、他者の顔に問いただされ、それに応答することを重視したレヴィナスの思想との親近性を見いだすことができる。愛と応答)。  さて、二つ目に興味深く感じたのは、パーフィットが「人類の滅亡を回避すること」を最重要課題として掲げている点である。パーフィットは、つぎのように述べている。「私の信じるところでは、もし私たちが人類を滅亡させるならば〔…〕、この結果はほとんどの人々が考えているよりもずっと悪いものである〔…〕。人類の滅亡はこの三つの種類のもの〔科学と芸術と道徳的進歩、あるいは完全に正しい世界規模の共同体の継続的進歩〕のさらなる達成を妨げる。これは極度に悪いことである。なぜならば、最も重要なことは、これらの種類のものを最高度に達成することであって、これらの最高の達成は、未来の世界にやってくるだろうからである」。パーフィットにとって、人間社会は進歩していくものであって、そうした進歩を最高度に達成させることこそが、最も重要なこととなる。その達成段階は、未来においてやってくるのだから、その未来の可能性を消し去ってしまうようなこと、つまり、人類の滅亡はとてつもなく悪いことであり、回避すべきことである。パーフィットのこの主張は、本書が描く展開をさらに越えて、オックスフォードの新星W・マッカスキルが主張する「長期主義」につながるものだと言える。 ***  しかし、私は、パーフィット+マッカスキルのように「人類の存続を最重要課題とみなす倫理学」に対して、むしろ「人類の絶滅の可能性を織り込んだ倫理学」を構想できないかと考える。人類の進歩を、まったく予想外の仕方で、とつじょ切断しうるものこそが、真の「未来」である。「未来」はとつじょ到来し、私たちの思惑を圧倒的な仕方で切断する。この記事を読み終えたまさにつぎの瞬間、未知のウィルスによるパンデミックが発生するかもしれない。あるいは、未確認の小惑星が地球に衝突したり、謎の宇宙災害に巻き込まれたり、物理法則が別様になってしまったりするかもしれない。人類はあっけなく終焉を迎えるのだ。  私たちは、まったく予測不可能な絶滅の可能性につねに包み込まれている。人類の存続と進歩は、たまたま現在成立しているにすぎない。人類の存在をこうした偶然性のもとでとらえ、予測不可能な絶滅の可能性を率直に受け止めたうえで倫理学を語ること。滅びの可能性を前提として含み込んだ倫理学を描くこと。そうしたことはできないだろうか。(いいもり・もとあき=中央大学 文学部兼任講師・ホワイトヘッド、ハーマンを中心とした現代形而上学・哲学)  ★さとう・たけし=専修大学文学部教授・現代英米倫理学。オックスフォードの道徳哲学を中心としたメタ倫理学や規範倫理学、エンハンスメントを巡る応用倫理学の諸問題について研究。著書に『R・M・ヘアの道徳哲学』『メタ倫理学入門』『「倫理の問題」とは何か』『心とからだの倫理学』『英米哲学の挑戦』など。一九七九年生。

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