2026/07/10号 7面

滅びゆく惑星で 10 (増田俊也)

滅びゆく惑星で 第10回 増田俊也  歴史に名を残した研究者は数えきれないほどいる。だが、その後の人類社会をまるごと引っくり返してしまった者となると、チャールズ・ダーウィンを措いて他にはいない。  かのビーグル号での航海は一八三一年から一八三六年。世界一周のあいだに得た膨大な観察をもとに、彼は『種の起源』を著し、進化論を人類に手渡した。神が万物を創造したという当時の世界観を、根本から書き換えてしまったのである。  生物学だけの話ではない。人間が自然の一部にすぎないという認識は、宗教から倫理から政治から芸術まで、あらゆる領域に地殻変動を起こした。ひとりの英国人紳士の思索が、文明そのものの骨組みを変えたのだ。  ところが、この文明の書き換えを成し遂げた男は、大学の研究室に籠もる健脚のエリートではなかった。むしろ真逆である。彼は疲れやすく、集中力が続かず、大学に所属することもなかった。ロンドン郊外のダウンという田舎に自宅を構え、生涯そこに引き籠もって仕事をした。合間合間には庭の散歩道をゆっくり歩き、昼寝を挟み、一日にほんの数時間だけ机に向かった。少しずつ、しかし決して止まることなく、たったひとりで進化論を編み上げていったのである。それはまるで彼がガラパゴス諸島で見たゾウガメのような鈍い動きであった。  なぜ他の大学人のように集中して研究に没頭できなかったのか。身体の不調である。ダーウィンの症状については、南米で寄生虫に感染したのだという説、心臓疾患ではなかったかという説、いくつも唱えられてきた。私は欝病だったのだと思う。書斎に籠もって外に出られない時期の長さ、動悸や吐き気の記録、社交を徹底して避けつづけた生涯、いずれも今日でいう気分障害の像とよく重なる。  能力の高さや馬力にまかせて業績を積み上げる人ももちろんいる。頭脳の明晰さ、体力の強靭さ、集中の持続力。それらを備えた人びとが世界には確かにいる。だが、多くの凡人にはそのどれも十分には備わっていない。私も含めて、である。  ならば私たちが仕事で目指すべきは、ダーウィン方式ではないか。一日数時間、疲れたら休み、歩き、眠り、また机に戻る。一歩ずつ確かめるようにして思索を進める。派手さはない。効率もよくない。まわりから見れば怠けているようにさえ映るかもしれない。しかしその歩みが止まらぬかぎり、いつか予想もしなかった場所にまで到達している。長い時間をかけて降りていった思索は、短期集中で得た結論よりも、はるかに深いところに根を下ろす。  牛の歩みは遅い。だが牛は倒れない。倒れずに歩きつづけた者が、結果として世界を書き換える。ダーウィンが私たち凡人に残してくれたのは、進化論だけではなかったのである。(ますだ・としなり=小説家)