2026/04/10号 4面

明治・大正・昭和の細菌学者たち

明治・大正・昭和の細菌学者たち 竹田 美文著 塩野 麻子  二〇二四年に日本銀行券が改刷され、新千円札の肖像には北里柴三郎(一八五三〜一九三一)が採用された。改刷に際して、当時の財務大臣は北里を「日本細菌学の父とも言われ、日本医学の発展に貢献した」人物として紹介した。これに先立つ千円札の肖像は、蛇毒、オロヤ熱、梅毒スピロヘータの研究により知られる野口英世(一八七六〜一九二八)である。細菌学の分野で業績を残した研究者たちが、相次いで千円札の「顔」に選ばれたことは、細菌学者たちの歩みが、「わが国」の歴史の一部をなすものとして繰り返し参照されてきたことを、私たちにあらためて印象づける。本書は、国立国際医療センター研究所所長、国立感染症研究所所長などを歴任し、長年細菌学・感染症学研究に携わってきた著者が、その立場から、「明治初期から昭和前半にかけて活躍した日本の細菌学者たちが、いかにして世界の研究者と肩を並べ、数々の輝かしい業績を挙げてきたかを紹介する」(i頁)ものである。  本書の表紙を飾ったのは、大阪大学微生物病研究所が所蔵する「コッホの顕微鏡」である。この顕微鏡は、一八八二年のロベルト・コッホによる結核菌発見を記念して、4人の門下生、エミール・フォン・ベーリング、パウル・エールリッヒ、フリードリッヒ・レフレル、そして北里柴三郎が、コッホに贈ったものである。その後「コッホの顕微鏡」は、一九七〇年に開催された大阪万博を機に来日し、西ドイツ館に展示された。閉会に際して、「万博成功の感謝のしるし」として同館館長から当時の大阪府知事に渡り、その後大阪大学に寄贈された。現在、「コッホの顕微鏡」は大阪大学微生物病研究所・微研ミュージアムで公開されている(表紙そで)。  本書で取り上げられている人物たちは、北里柴三郎(第1章)、志賀潔(第2章)、秦佐八郎(第3章)、野口英世(第4章)、長与又郎(第5章)、稲田龍吉・井戸泰・二木謙三・谷口腆二(第6章)、大原八郎(第7章)、藤野恒三郎(第8章)と、いずれも日本の細菌学史を語るうえで欠かせない研究者たちである。各章は、人物の歩みを軸に構成されているが、例えば第5章のタイトルが「長与又郎——つつが虫病病原体の発見」とあるように、ある病原微生物の発見者であることが、その人物を語るうえで重要な位置を占めている。このような語り方は、細菌学の歴史が、病原体の「発見」の積み重ねとして理解されてきたことを思い起こさせる。  その一方で、いずれの章も、細菌学者たちの業績の紹介にとどまらず、それが生み出された過程や当時の研究環境、試行錯誤のあり方が、具体的なエピソードとともに描かれている。その筆致からは「学問の系譜をただ記録するのではなく、先人たちの業績とともに、その姿勢や息づかいを身近な記録として手渡す」(i〜ii頁)という著者の意図が一貫して感じられる。  とりわけ印象に残るのが第8章「藤野恒三郎——腸炎ビブリオの発見」(二三一〜二五二頁)である。本章は、著者の研究上の師でもある藤野恒三郎(一九〇二〜一九九七)の細菌学者としての歩みを、「シラス中毒事件」(一九五〇年)の社会問題化を契機とした腸炎ビブリオ研究を中心に描いている。本章では、病原体の同定にいたる研究過程だけでなく、当時の社会情勢や行政の対応、研究の進行におけるGHQ等の関与などにも目を向けられており、藤野の研究がどのような条件のもとで進められていたのかが、当時の資料や藤野自身の回想を手がかりに示されている。さらに、藤野の研究成果が、食品衛生にかかわる施策や啓発活動へとつながっていく様子も描かれており、本章は、戦後期における細菌学研究の営みと社会との関係を考えるうえで、示唆に富む内容となっている。  また本書は、藤野恒三郎による『藤野・日本細菌学史』(近代出版、一九八四年)を重要な参照点としつつ、その仕事を異なるかたちで受け継いだ一冊としても読むことができる。『藤野・日本細菌学史』は、当時の原著論文を含む膨大な文献をもとに日本の細菌学の展開を丹念に跡づけた全六九五頁の大著であり、医学研究者や医史学者により長らく参照されてきた。それに対して本書は、著者自身が述べているように、「藤野の著書を基に、高等学校の学生を含む一般の読者にも理解していただけるよう、平易な解説を試み」(二六〇頁)、人物の歩みを軸に日本細菌学史を再構成したものである。くわえて本書は、『藤野・日本細菌学史』ではほとんど描かれなかった藤野自身の医学的業績、すなわち「腸炎ビブリオの発見」を詳細に取り上げている(第8章)。藤野恒三郎の細菌学者として、また医史学者としての仕事の双方に敬意を表した書籍である点も、本書の大きな特徴のひとつであるといえよう。  なお、本書で取り上げられた細菌学者はいずれも、大学などの研究機関を拠点として活動してきた人物である。その点において本書は、大学を中心とした日本の細菌学研究の歩みを整理した一冊として位置づけることができる。他方で、近年では、軍陣医学をはじめとする、大学の「外」における医学知の生産にも関心が向けられており、そうした領域を含めた細菌学史の構築が、今後の医学史研究の課題として意識されつつある。本書は、そのような細菌学史の広がりを構想するための出発点のひとつとしても読むことができるだろう。  2025年4月に、国立感染症研究所と国立国際医療研究センターを統合するかたちで、国立健康危機管理研究機構(JIHS)が発足した。感染症への対処が、「健康危機管理」という新たな枠組みのもとで捉え直されつつある現在、本書は、日本の細菌学や感染症研究がどのような歴史的文脈のなかで形づくられてきたのかを振り返るための、格好の一冊である。(しおの・あさこ=立命館大学専門研究員・医学史・疾病史)  ★たけだ・よしふみ=国立感染症研究所名誉研究員・医学。京都大学医学部教授、国立感染症研究所所長などを歴任。著書に『下痢の細菌を追っかけて五〇年』など。一九三五年生。

書籍

書籍名 明治・大正・昭和の細菌学者たち
ISBN13 9784872596519
ISBN10 487259651X