2026/10/23号 7面

滅びゆく惑星で 24(増田俊也)

滅びゆく惑星で 第24回 増田俊也 砂漠に立つ赤いポスト  私の手元には大量の手紙が残っている。筆で書かれたもの。万年筆で書かれたもの。ボールペンのもの。鉛筆のもの。隅に小さなイラストを添えたものもある。ほんの四半世紀前まで、文字で長文の意志を伝える手段は手紙しかなかった。  封を切る前から、手紙は多くを語っていた。宛名の字の傾き、切手の選び方、消印の日付。封を切ればさらに気持ちが伝わった。筆圧の強い字は怒りか、決意か。インクの滲んだ箇所で書き手は手を止めたのか。鉛筆の手紙では消しゴムの跡までが文面の一部になる。肉筆とは、書いた者の身体が紙の上に残した痕跡である。  そして手紙には「待つ時間」があった。投函して相手に届くまで二日ほど。返事を書くのにまた数日から一週間、ときに一カ月。その間、人は相手のことを考え続ける。言いすぎたか。伝わったか。あの一文は余計だったのではないか。待つ時間は空白ではなかった。関係を熟成させる時間だった。  メールはこの時間を消した。送信した瞬間に届く。速さは誠意の尺度にすり替わり、熟考は怠慢と見なされる。社会心理学者シェリー・タークルは『つながっているのに孤独』(ダイヤモンド社)で、常時接続のなかで人がかえって孤立していく姿を描いている。即時性は距離を縮めたのではない。距離について考える余地を奪ったのだ。  日本の内国郵便物数は二〇〇二年度の二百六十二億通をピークに、二〇二二年度には百四十四億通まで減った。その減り様は急激で、二〇二六年にはさらに激減しているだろう。しかもいま届く手紙の大半はダイレクトメールや請求書の類である。個人が個人に宛てた肉筆の手紙はさらに激減したであろう。一カ月の投函数が三十通以下のポストは全国に四万三千本、全体の四分の一にのぼる。街角の赤いポストは、砂漠に立つ道標のように孤独である。  手で字を書くとき、人は一字ごとに速度を落とし、言葉を選び直す。キーボードやフリック入力は思考の速度に近いぶん、迷いの痕跡を残さない。打ち間違いは跡形もなく消え、推敲の過程は誰にも見えない。だが手紙の受け取り手が本当に受け取っていたのは、整った文面よりも、その迷いの方ではなかったか。  漱石と子規の往復書簡が今も読まれるのは、内容のためだけではない。病床の子規がロンドンの漱石へ書き送った手紙は、海を渡るのに何週間もかかった。その時間ごと、あの文面は残っている。手紙とは、届くまでの距離と時間を内側に抱えた文学形式だった。  私たちは何でもすぐに届く世界に住んでいる。だが、すぐに届くものは、すぐに忘れられる。引き出しから古い手紙を一通取り出して読み返すとき、私はそこに三十年前の書き手の息遣いを聴く。しかしパソコンやスマホのメール受信箱には息遣いも温度も、もちろん手触りも感じられない。(ますだ・としなり=小説家)