女の子の背骨
市川 沙央著
錦見 映理子
表題作の主人公である十歳のガゼルは、七歳上の姉と同じ生まれつきの筋肉の病気を持っている。姉が人工呼吸器をつけて寝たきりであるのに対して、ガゼルは側湾矯正コルセットをつけてはいるが歩くことも食べることもしゃべることもできるし、飛行機にも乗れる。ビーチボールで壁打ちもできる。「ガゼルは元気」と周囲の大人達は言う。でも、「元気」と気安く言っていいのだろうか。
ガゼルは生来の病気のためにガリガリに痩せていて、母は細い脚を隠すためにズボンしか穿かせない。「痩せている身体が布地越しに透けないか、側湾矯正コルセットの凹凸が目立たないか」、外出する際に親がチェックしている気配をガゼルはいつも感じている。それでも街に出れば、「雑踏に紛れた宇宙人を見つけてしまった顔で子供はガゼルを見る」。
でも家ではガゼルは「元気」と言われてしまう。なぜならお姉ちゃまよりは元気だから。
「元気」なガゼルは両親と伯母夫婦と共にグアム島に一週間の旅行中なのだが、病院にひとり残された姉が毎日読めるように七通のおてがみを残し、一通目にこう書く。
「元気ですか」
姉はこれを読んでどう思うのだろう。ただの定型文だし、こんなことくらい何とも思わない? 無意識に相手への優位性を帯びる言葉が無邪気に使われるさまが、本作には折々描かれている。互いに目に見えない微かな痛みや感情に気づかないふりをし続けるとどうなるのか。姉はいつもガゼルが何をやっても言っても怒らず、どんな酷い言葉でも笑って聞き流すのだが、ガゼルは「本当はそれがいちばん怖い」と思う。
もう一篇の「オフィーリア23号」にも、抑圧に適応して生き延びるしかなかった家族が出てくる。主人公の二十三歳の大学院生の那緒も二人きょうだいで、兄がいる。「俺は神だ」とか「天皇だ」とか言っているガゼルの父よりも、那緒の父はもっと横暴で妻をよく殴っていた。母はそんな夫にすっかり順応するしかなく、兄は無表情でやりすごすのを習慣としている。那緒は十九世紀末のドイツの哲学者ヴァイニンガーを研究対象にしており、彼の女性差別的な言葉をネットでばらまいて広めようとしている。ミレイの描いた、狂気のうちに川に落ちて死んでいくオフィーリアの画像を添えて。
男尊女卑の家に生まれて母が殴られるのが当たり前な環境で育った那緒は、「女は存在しない」「女は娼婦か母になるしかない」というヴァイニンガーの言葉を信奉し、女である自分の身をもって実践しようとする。過激すぎる適応ぶりだ。那緒はオフィーリアの絵のジグソーパズルを完成させて額に入れ、十年以上も部屋に飾っている。オフィーリアのように「狂気に心を明け渡し」「自我のない虚無そのもの」になることへの憧れがあるのだろう。
那緒が自我を消す実践の場として選んだのは、劇団主宰者の恋人に頼まれた、三島由紀夫の『憂国』の映像化のための、AVまがいの撮影合宿だった。切腹する軍人の夫に従って自刃する妻になりきろうとするのだ。夫役の恋人と性交しながら、那緒は自分を追いつめていく。日本の旧植民地で軍人たちに犯された女たちのことを思い出し、その苦しみを内面化して自我を崩壊させようとするも、「かわいそう。でもそれは、わたしには関係ない」と考えてうまくいかない。兄が自分を犯していると思い込もうとしても、うまくいかない。
外は台風が吹き荒れており、気圧の変化によって那緒の持病である頭痛がひどくなるうちに、突風に紛れて、父に平手打ちされる母の叫び声を聞く。「これ以上、頭を押さえつけられるのはまっぴらだ」と身体の痛みによって、那緒は強く思う。頭を押さえつけてくる圧力をはねのけ、身体の奥に押し込めてきたものを一気に吐き出すかのように、那緒は嘔吐する。植え付けられた思想に、身体が抵抗するさまが描かれている、この場面は圧巻だった。「わたしは消えない」。
母の叫び声も消えない。子どもとして守られていた自分が、自分たちを守ってくれていた母を逆に守れたかもしれなかったことに、那緒は初めて気づく。完全なる弱者も完全なる強者もいない。那緒が兄に、わたしとあなたは仲間、と告げるのはそういう意味なのだろう。(にしきみ・えりこ=小説家・歌人)
★いちかわ・さおう=作家。筋疾患先天性ミオパチーによる症候性側彎症および人工呼吸器使用・電動車椅子当事者。「ハンチバック」で文學界新人賞、芥川賞受賞。『ハンチバック』は二十四の国と地域での翻訳が決定し、英国の国際ブッカー賞のロングリストにも選出された。一九七九年生。
書籍
| 書籍名 | 女の子の背骨 |
| ISBN13 | 9784163920214 |
| ISBN10 | 4163920218 |
