犬の年 上・下
ギュンター・グラス著
太田 靖久
ギュンター・グラスを初めて知ったのは、フォルカー・シュレンドルフ監督の映画『ブリキの太鼓』を観た三十年ほど前だ。欺瞞に満ちた大人の世界を憎み、純真な眼差しを保持するために成長を拒絶した主人公「オスカル」は、当時二十代前半で反抗的な物語を好んだ私に強い印象を残した。自然と原作にも手が伸びた。
『犬の年』は、『ブリキの太鼓』(一九五九年)、『猫と鼠』(一九六一年)に続き、一九六三年に刊行されたダンツィヒ三部作の完結編である。第二次世界大戦を中心に据え、戦前、戦中、戦後の三つの時期を三人の手記の形で綴った三部構成だ。舞台となるダンツィヒは、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約(一九一九年)によりドイツから切り離され、第二次世界大戦の初期にドイツに占領された都市国家であり、グラスの出生地でもある。
第一部の冒頭に登場する主要なモチーフのうち、私が注目したのは「ヴァイクセル」と「犬」だ。「ヴァイクセル」は河の名であり、本作全体の構造を内包している。
河は上流から下流に流れる。その推移は抗うことのできない運命と同義であり、血縁やナチズムの台頭と重なる。一方、河の表面には流れの速い場所があったり、逆流していたり、停滞したりして複雑な表情がある。これは多様な人々の営みを表現している。
グラスの筆致は上空から河を俯瞰した次の瞬間、高性能のドローンのごとく急降下して細部を描写する。その運動の往来があまりに激しいうえに、人名や固有名詞も横溢するため、読者は戸惑うかもしれない。
この圧倒的な情報量について、翻訳者の中野孝次氏は上巻巻末のあとがきにて対策を記している。「グラスの最大の魅力は各々のエピソードの中にある。だから、この小説の厖大に辟易する向きは、まずぱらぱらと興味ありそうな部分から読んでごらんになるといい。一度この饒舌と思いつきと悪戯心とにみちた語り口、物をしっかりとらえた物語の魅力にとりつかれたら、こたえられなくなるだろう」
なにかを説明する際、情報は適宜取捨されるのが通例だ。しかしグラスはその凡庸さを排する。筋道も意図もわかりづらくなるという難解さを引き受けてでも、大河のすべてを写し取ろうとしているようだ。多大な犠牲を負った歴史の目撃者として、その責務を果たそうとする意志が感じられる。混沌という濁流の中にこそ、人間たちの痕跡がある。出来事の大小に優劣をつけずに活写することで、戦争の実相を真摯に伝えようとしたのだろう。その確かな感触と重みに感動がある。
第二部が書簡形式なのも納得がいく。距離だけでなく、時間も隔たっている場所からのどこか遠い声のようで、現代を生きる私たちに向けられた切実な手紙とも感じられるからだ。
第三部の冒頭が「中心に立っているのは犬だ」とあるように、「犬」も象徴的な位置を占めている。特に、人間の思惑によって従順に仕立てられた軍用犬は、健気ゆえに一層哀しい。その姿は〈犬死〉や〈権力者の犬〉といった侮蔑的な慣用句を想起させる。中野氏によると、本書タイトルの「犬の年」の意味は「ひどいみじめな歳月」も含むとしている。しかしこの不名誉な称号を「犬」にのみ押しつけていいはずがない。
『犬たち』(マルク・アリザール著、西山雄二・八木悠允訳、法政大学出版局、二〇一九年)にこんな一節がある。「犬は私たちの恥を知っており、それが犬の秘密であり、だからこそ犬は沈黙している」と。ここでいう「私たち」とは人間のことだ。その「恥」のひとつが人間の野蛮な暴力性であるといえるだろう。「犬」は人間の本質を見抜きつつ、「沈黙」し、汚名を引き受けている。その寛容さに甘え続けるわけにはいかない。戦争を引き起こしているのは人間自身に他ならないからだ。
最後に、本書の出版社にも敬意を表したい。あるタレントが近年の社会情勢を「新しい戦前」と評したようだが、本書を復刊した行為には反戦のメッセージが込められていると私は受け取った。(中野孝次訳・解説)(おおた・やすひさ=作家)
★ギュンター・グラス (一九二七―二〇一五)=第二次世界大戦後のドイツを代表する文学者。一九九九年にノーベル文学賞受賞。代表作に『ブリキの太鼓』『女ねずみ』『はてしなき荒野』など。小説のほか戯曲や彫刻、版画も多数。『猫と鼠』『犬の年』は『ブリキの太鼓』とあわせて「ダンツィヒ三部作」と呼ばれる。
書籍
| 書籍名 | 犬の年 上 |
| ISBN13 | 9784911290064 |
| ISBN10 | 4911290064 |
