2025/10/17号 6面

私は何者かを知りたい

私は何者かを知りたい ドナーリンク・ジャパン編 二階堂 祐子  2025年2月に国会に提出された「特定生殖補助医療に関する法律(案)」では、「出自を知る権利」として、第三者の精子や卵子を使って生まれた人とその親、配偶子の提供者の情報は国に登録され、生まれた人は18歳になれば提供者の「身長、血液型、年齢等」と、提供者が許可した範囲の個人情報を知ることができると示された。さて、果たしてこれは「出自を知る権利」といえるのか。本書はこの疑問に応えるかのように、AIDで生まれた人たち7名による原稿を中心に形成される。さらに、AIDで親になった人3名、AIDで生まれた人のパートナー1名、精子提供の経験がある人1名も登場する。AIDという医療技術が繫ぐさまざまな立場の人によって編まれている点が本書の最も大きな特徴である。とはいえ中心にあるのは、生まれた人たちの「自分は一体何者なのか」の苦悶である。本書の表紙には、黒い人影に一部白字でタイトルが印字されているが、半透明で少し厚みのある素材のカバーにもタイトルの一部が白字で記されている。つまり、本体にもカバーにもタイトルが印字されているのだが、重なる位置が少しずれると白抜きの「何者か」の文字がぼやけて見える。電車のなかでバッグからこの本を出したときに気づき、はっとさせられた。今もこの社会のどこかで、自分は何者なのかという意識を身体のどこかに常に住まわせて生きる当事者に思いを巡らせる仕掛けとなっている(装丁 安藤紫野)。  本書に登場するAIDで生まれた人たちは、それぞれのタイミングで提供者を知りたいと動き始める。ある人は母から病院名を聞いて問い合わせたが、「一流大学の医学生」としか教えてもらえなかった。その人にとってドナーは「真っ暗でぽっかりと穴が空いて、本当にそこに人がいるのかさえわからない非存在的な存在」(81頁)という。一方で、提供者が親戚であるとわかっていて、会ったことがあり、写真も持っている場合、生まれた本人は、提供者が確かに存在し、この社会に暮らしている/いたことを実感としてもてる。だから、提供者が死んだあとも、提供者の配偶子から生まれた子どもたち(親戚)を自分の「きょうだい」と呼び、彼らと付き合うことで提供者について知る機会を持とうとする。そうして提供者と積み重ねることのなかった時間を埋めようとする。これは、ドナーは「K大学の医学部学生」と聞かされた別の生まれた人が、提供者と会って話をして「今まで抜けていたそういうところ(人間性とか性格)を埋めたい」「過去の抜けていた所を補充したい」(242頁)と願う姿に重なる。  AIDの子どもを産んだことを受け入れられていない母親に対して怒っているという生まれた人は、「普通ならば夫以外の人の子どもを産むということは、それを納得させるストーリーがいる」(59頁)と述べる。「夫以外の人」という呼びかたは、この世に生まれ、大人になって精子提供をするまでを生きてきた誰かが身体をもってそこにいる印象を私たちに与える。その「人」との子どもを産むならば、その行為には説得性のあるいきさつが必要だ。なぜなら「夫以外の人の子どもを家族に迎えること」は人間関係を複雑にする可能性があり、「家族なりに受け止めていく過程がいる」から。  そして親に疑問を投げかけるかのように「ところがAIDは医療だから正しいと簡単に考えてしまっていいのかな」(59頁)と続ける。「簡単に」とは、「夫以外の人」が家族に関わることへの慎重な検討が蔑ろにされていることを指すであろう。では、「医療だから正しい」はどうだろうか。  ここで、医療がどのような家族観を前提としてもっているのかを考えてみたい。それは、異性愛カップルがいて、その二人は生物学的親で、健常の子どもがいるといった「ふつうの家族」観であるように思われる。患者は、医療は正しいと信じ、その規範に従う。医療者が使う技術は、配偶子の移動で完成する。医療の看板のある空間に足を踏み入れることは、多様な家族のあり方、人と人が積み重ねる時間と関係の複雑さ、不測のある身体等を受け入れることの省略となっているのかもしれない。これは着床前診断や出生前検査といった医療技術のもつ省略機能とも繫がるのではないだろうか。(にかいどう・ゆうこ=奈良先端科学技術大学院大学特命准教授・医療社会学)

書籍

書籍名 私は何者かを知りたい
ISBN13 9784771039711
ISBN10 4771039712