イスラムと世俗主義
八木 久美子著
牟禮 拓朗
民主主義政治にとって政教分離は必要条件だ、しかしイスラムと政治は一元的なものであり両者は不可分である、ゆえにイスラム国家に民主主義政治は適さない――もしこうした三段論法に囚われている者がいるとするならば、本書はイスラム世界の見方にさらなる奥行きと新たな知見を与える画期的な書となるだろう。本書は、近代以降のエジプトで生じてきたイスラムと世俗主義の相克を眼差しつつ、「マダニー国家」という概念を基点とし両者が宥和するエジプトの知的・実践的営為を捉えた労作である。
本書が舞台とするエジプトの前提知識として序章で触れられている特徴は、概ね次のようなものである。つまり、エジプトは①イスラム教スンナ派法学の権威であり多くのウラマー(イスラム法学者)を輩出してきたアズハルを擁すること、②その一方で一九世紀初頭からイスラム世界でいち早く西洋的近代化が進められた国でもあること、③ナセル、サダト、ムバラクと半世紀以上にわたる独裁体制時代においても憲法におけるイスラムの位置づけが揺れ動いてきたこと、③二〇一一年の「アラブの春」による独裁体制崩壊後、民主的な選挙でムスリム同胞団勢力が勝利を収め、「イスラム主義者主導による民主主義政治」が試みられたこと、④国内に五〇〇万人以上というアラブ最大のキリスト教(コプト教)徒コミュニティが存在すること、などである。
こうした特徴を背景に、一章ではエジプトの公教育におけるイスラムの位置づけが論じられる。現行憲法において、エジプトの国民性を築く上で宗教教育の重要性が記されており、いかに少数派であるキリスト教徒を包摂した教育実践が行われているかが、憲法や教育関連法、カリキュラム、教科書などから分析されている。宗教教育はムスリムとキリスト教徒で分かれて行われるが、コーランの文言からの引用も多くイスラムとの結びつきが深いアラビア語の授業を通して、キリスト教徒も共にイスラムに内在化されている普遍的価値について学ぶという。
そして二章以降で、イスラムと世俗主義をめぐる諸問題について深く切り込んでいく。ここでは特に、イスラム主義者と世俗主義者の双方が共に用いている「マダニー国家」という概念についての分析が議論の中枢に据えられている。「マダニー」とは日本語の「市民」や「文明」にあたるアラビア語であるが、「マダニー」の持つ含意の複数性に注目する本書は、そのままカタカナ表記を用いている。
著者は、イスラム主義と世俗主義双方の思想家の言説を取り上げつつ、この「マダニー」の意味内容の変化を浮かび上がらせる。一九八〇〜九〇年代のエジプトで行われた「イスラム主義陣営」と「世俗主義陣営」に分かれた公開討論において、「マダニー国家」は、主に世俗主義陣営によって、自身が政教分離の擁護者でないことを示すために用いられていた。つまり、イスラムの社会的影響力が拡大しつつある時代において、イスラムに敵対しない「(政教分離を求めない)世俗主義」の意味を持っていたという。他方、急進的なイスラム主義勢力の台頭を背景に、有力ウラマーや同胞団員らもイスラムの穏健性や宗教的寛容を示すために「マダニー国家」を掲げるようになる。「アラブの春」後に同胞団のムルシーが大統領に就いた際も、「(宗教的な)神聖国家ではない、マダニー国家の建設」を強調していたという。
このように、「マダニー国家」は、世俗主義者やイスラム主義者を問わず価値を有する概念として両者に共有されるようになった。「マダニー」はなお「世俗主義」を意味する語としても用いられるが、その内実が絶対的な政教分離ではなく、イスラムを国家の基底としつつも世俗主義者や非ムスリムらを包摂した「イスラム的世俗主義」の可能性をも示唆すると論じる。まさに、イスラムと国家をめぐる「政教分離か、政教一致か」の二者択一論に一石を投じる視座と言えるだろう。
ただし、「マダニー国家」それ自体を即効性のある特効薬と盲信することには留意が必要だろう。個々の「マダニー」イメージに差異があることを十分に理解し、イスラム主義者や世俗主義者、キリスト教徒らそれぞれのイメージのすり合わせ――つまりある人が「マダニー」と言う時にその意味が発話者の立場や思想に寄ることがないよう、両者の合意形成を目指した不断の対話が必要であろう。それは、時代や場所が変わっても同じなのかもしれない。(むれ・たくろう=国際宗教研究所宗教情報リサーチセンター研究員・中東・北アフリカ地域研究)
★やぎ・くみこ=名古屋外国語大学教授・東京外国語大学名誉教授・宗教学。著書に『神の嘉する結婚』『慈悲深き神の食卓』『グローバル化とイスラム』『アラブ・イスラム世界における他者像の変遷』など。
書籍
| 書籍名 | イスラムと世俗主義 |
| ISBN13 | 9784910635217 |
| ISBN10 | 4910635211 |
