2025/10/24号 4面

詳解 チェ・ゲバラボリビア日記

詳解 チェ・ゲバラ ボリビア日記 エルネスト・チェ・ゲバラ著 寺本 衛  本書は、不世出の革命家エルネスト・チェ・ゲバラの遺作にして戦記日記の古典、『ボリビア日記』の日本語訳決定版である。角書きに「詳解」とあるように、少なくない原注に加え、ボリビア山中の動植物から配下の各ゲリラ評価、自らのゲリラ部隊を取り巻く政治状況など、多岐にわたる分野について詳細な訳者注記が施されている。  さらに本書には、概要をまとめた導入部としての「訳者序」、ゲバラ部隊が展開した地域の地図、巻末付録として、キューバ書籍院版第2版収載のチェ・ゲバラ自身による声明文7本を抜粋した付属文書、本書をめぐる謎を整理した「解題――数奇な運命を辿った日記原本とアルゲーダス内相」、詳細な解説、ボリビア民族解放軍(ゲバラ部隊)戦士人名録、参考文献、「チェ・ゲバラ メモリアル写真」19葉がつく充実ぶりである。  『ボリビア日記』はまた、『ゲバラ日記』として邦訳が多数刊行されてきた。原著刊行の翌月にだされた朝日新聞社外報部訳『ゲバラ日記』(朝日新聞社)を始め、仲晃・丹羽光男訳(みすず書房)、真木嘉徳訳(三一書房・中公文庫)、選集刊行会訳『ゲバラ選集』(青木書店)所収のもの、平岡緑訳『新訳 ゲバラ日記』(中公文庫)などである。  なかでも、これまで最も詳しい注釈を収載しているのが、直木賞作家である三好徹訳『ボリビア日記[詳注版]』である。これは『革命戦争の日々(革命戦争の道程)』との合本である『チェ・ゲバラの声』(原書房)所収で、チェ・ゲバラに心酔した同時代人である三好が、それまでの訳本に不満を募らせ独学でスペイン語を学び訳した渾身の著作である。  確かに三好の言う通り、耐え難い「非良心的訳本の氾濫」だったかもしれない。情勢に詳しいジャーナリストによる初期邦訳本にはやはり時代的な情報不足という制約があっただろう。例えば本書の「解題…」で明らかにされているように、ゲバラ直筆の日記原本からおそらく意図的に削除された13日間(結果的に特筆事項が何ごともなかったような計13の日々だった=当時のボリビア軍政あるいは米諜報機関による改竄跡か)の謎は、のちにフィデル・カストロによって白日の下に曝されたが、初期訳本には当然ながら載っていない。このほかさまざまに秘匿されている情報が明らかになることによって不鮮明だった事柄がはっきりと姿を現すはずだが、この点は本書とて免れない性質のものであろう。  もうひとつ大きな問題点として、訳者のスペイン語力の問題がある。文学的素養が相当豊かでそこここに二重の意味や諧謔を潜ませるゲバラの文章である。スペイン語のできる訳者でも簡単ではない。英語など他言語に訳された場合、文章にこめられた機智の類は換骨奪胎され、さらに日本語になったときには大きな齟齬が生じることは容易に想像できる。  本書の訳者である伊高はキューバを含むラテンアメリカを60年近く取材し続け、スペイン語を自由に操り翻訳経験も豊富であり、上記の問題点を優に満たしている点は強調しておきたい(伊高独自の原音表記主義には慣れるまで時間がかかるかもしれないが)。その焦眉はチェの標語であるHasta la Victoria Siempreの謎解きであろう。この有名な標語はじつは文法的に破格。ボリビア行きを前に自分に何かあったときに(死後に)公開する約束で渡した「別れの手紙」を、新生キューバ共産党発足演説でフィデルが約束を反故にして読み上げたためチェの退路は断たれた。それもご丁寧に手紙末尾に改竄を加えて無理矢理こじつけたため破格になったその理由に迫る(詳細は本書参照)。  しかしなぜいま『ボリビア日記』なのか。ジョン・L・アンダーソン『チェ 革命的人生』を基にした、スティーヴン・ソダーバーグ監督、ベニシオ・デル・トロ主演『Che』(2008年、邦題『チェ 28歳の革命/39歳別れの手紙』、日本公開は2009年、本書は映画の後半部分にあたる)のころに小さな特需が生まれ、関連本の出版が相次いだがいまは違う。フィデルが鬼籍に入りラウルも一線を退いたいま、だからこそ秘匿されてきた情報が表にでてくることもあるのだろうが、やはり大きな世代交代の波のせいなのか。  または世界を股にかけ社会正義を貫こうと心身を捧げたチェ・ゲバラを、世界中で、力のある者が力のない者を平然と蹂躙し虐殺するこの時代に、弱い者の側に立って世界を正そうとするひとつのアイコン=参照枠として蘇らせるべきとの印なのか。  二十数年ぶりに『ボリビア日記』を読み返し、壮絶な最期と歴史のイフにまたもや心を搔き乱され、躓きの始まりであるコンゴの失敗にいきつく。パコ・イグナシオ・タイボⅡ他、神崎牧子・太田昌囯訳『ゲバラ コンゴ戦記1965』(現代企画室)に戻り、圧倒的な準備不足と現地カタンガの民衆の無理解、フィデルによる厄介払いの側面などを再確認する。  さらにベン・ベラ率いる独立アルジェリアとの交流に加え、64年、ニューヨークでのマルコムX(この2か月後に暗殺)とのニアミスを改めて思い返す。マルコムXのアフリカ報告会がハーレムで開かれたものの、内政干渉とのそしりを恐れたゲバラは出席せずメッセージを送るのみとし、それをマルコムXが代読したことを知る。この翌週、ゲバラはアルジェリアで故フランツ・ファノンの妻ジョジーと会ってもいる。ゲバラの打ち出した「新しい人間」論はファノンに大きな影響を受けているが、律儀にもこうして敬意を表したのだと推測する。ゲバラの足跡を再び遡ることで、ゲバラが北米の公民権運動に影響を与えつつベトナム反戦運動の高まりを好機と捉え、米ソ超大国に対する〈南〉からの包囲網づくりを急がねばとの焦りもあったのか。そして最終目標は故郷アルゼンチンの民主化……。  これから情報公開が進み、本書も捉えきれていない多くの謎が解明されていくだろう。例えばソ連批判の大演説をぶって帰国したチェとフィデルが40時間籠って話し合った内容、キューバとゲバラ部隊の唯一のパイプである諜報員「レナーン」の帰国の理由(ここから一気に負け戦が続いていく)など、いずれ大きなパズルのピースがはまるまで、本書を超える日本語版『ボリビア日記』はしばらくでないだろう。  英雄ゲリラ生誕100年を前に、こうした書籍が登場するのだから望みは高まる。映画化された最初の旅を含む2度の南米旅行記をまとめて『チェ・ゲバラ 南米旅行記』とし、『革命戦争の道程』の元となった「キューバ日記」と『コンゴ日記』『ボリビア日記』をまとめて詳細な注・解説をつけた『ゲバラ日記〈完全版〉』を読みたいと願うところである。(伊高浩昭訳・解説)(てらもと・まもる=株式会社三省堂出版企画部次長)  ★エルネスト・チェ・ゲバラ(一九二八―一九六七)=アルゼンチン生まれ。五六年末からのキューバ革命戦争に参戦。五九年元日勝利、革命戦争英雄。キューバ国籍取得、革命軍少佐。六六―六七年ボリビアでゲリラ戦を指揮、ラ・イゲーラ村で一〇月九日処刑さる。享年三九。著書に『ゲリラ戦争』『革命戦争回顧録』など。

書籍

書籍名 詳解 チェ・ゲバラボリビア日記
ISBN13 9784120059308
ISBN10 4120059308