「アカウンタビリティ」(説明責任)という概念がある。ある行動や決定に対して、それをアクターに説明させ、場合によっては責任を取らせる理念のことをこう呼び、政策評価における鍵概念の一つとして知られる。政策を客観的な情報に基づいて評価する目的の一つは、このアカウンタビリティを確保することにある。なぜ客観的な情報が用いられるのかといえば、言葉だけだと、いくらでも言い逃れができるからである。「この街を元気にします」という公約を掲げている政治家の実績の吟味は難しい。「元気」の意味が多様だからである。一時流行したマニフェストに、目標数字や具体的な工程が書き込まれがちだった背景には、こうした事情があった。
しかし、果たして本当に我々は数字によってでしか、アカウンタビリティを追及することはできないのだろうか。本書は、政治家や政府が実際に用いてきた詭弁を、言語哲学の観点から分析することで、その端緒を切り拓こうとした試みである。
我々は、どのような時に、どのようにして政治家の言葉のアカウンタビリティを追及すればよいのか。たとえば、「そんなつもりはなかった」というよく耳にするフレーズについては、次のような議論が展開されている。「そんなつもり」があったかなかったかは、本人にしかわからない、と思う向きもあるだろう。しかし、発話された際の文脈や状況を仔細に検討すれば、我々はその意図を、本人でないにもかかわらず、高度なレベルで推論することが可能である。普段からレイシズムに親和的な発言をしている人が、「外国人には犯罪者が多い」等と言えば、それは「客観的な事実」の表明などではなく、差別の意図をもった言明だと解釈すべきである。このように、言葉の厳密性にだけ依拠するのでなく、そこにある揺らぎや、裏と表の曖昧な境界線を探ることで、逆説的に言葉のアカウンタビリティを追及する手立てを提供しているのが本書の特徴である。
しかし上述のような方針は、同時にある種の懸念も惹起する。それは読み手が好き勝手に書き手や語り手のステートメントを解釈してしまうのではというものである。本書は注意深くその議論を捌いているが、ポイントの一つは、「そんなつもりはなかった」と、「そう発言したからには、こういう意味に決まっている」の間のバランスをとることの重要性だろう。
政治家をはじめとした高い社会的地位にある人々が、非難を回避するために詭弁を用いることは、言葉の荒廃を招く。責任を追及していく姿勢は好ましい反面、「そう発言したからには、こういう意味に決まっている」の横溢を招く。そうなると、様々な含みや文脈の中で行われてきた繊細なコミュニケーションは擦り減り、我々はパターンしか公共圏で発話することができなくなる。本書はこれにも警鐘を鳴らす。
本書の戦略は、このように大きく分けて二つある。一つ目が、政治家の自分勝手な言葉の捻じ曲げや言い逃れに対する厳密な分析である。二つ目が、コミュニケーションや言葉のやり取りが、ある特定の状況に埋め込まれたものであることを前提として、その揺らぎを基本的には肯定しつつ、野放図に全てを認めるわけではないという構えである。二つ目はともすればご都合主義にも見えかねないが、海外の広範な先行研究に依拠した著述は説得的であり、困難な姿勢を貫くことに成功している。
身近な政治の話題であるため、言語哲学の入門書としても手に取る人が多いかもしれない。章ごとのサマライズは、初学者でも通読できるようにとの著者の心遣いだろう。ただ、それでもなお入門書としては総じて難度が高いのは否めない。説明があるとは言え、専門用語も全体的に多く、初学者にとっては躓きの石も多い。ある程度の忍耐強さが読者には求められよう。
アカウンタビリティが成立するためには、それを追及する能力を有した主体が必要である。言葉のアカウンタビリティの場合、追及するのに必要なスキルの一つが言語哲学なのかもしれない。政治のアカウンタビリティを哲学によって建て直す、新しい試みの登場を心から歓待する。(すぎたに・かずや=岩手県立大学総合政策学部准教授・公共政策学)
★ふじかわ・なおや=東京大学大学院総合文化研究科准教授・言語哲学。著書に『名前に何の意味があるのか 固有名の哲学』、共訳書にハーマン・カペレン+ジョシュ・ディーバー『バッド・ランゲージ 悪い言葉の哲学入門』など。
書籍
書籍名 | 誤解を招いたとしたら申し訳ない |
ISBN13 | 9784065386439 |
ISBN10 | 4065386438 |