共依存とケア
小西 真理子著
中森 弘樹
本書『共依存とケア』は、『共依存の倫理』『歪な愛の倫理』に続く、小西真理子による三冊目の単著である。評者は、『共依存の倫理』の頃から小西の著作を愛読し、拙稿で引用したり、大学の授業で紹介したりしている。小西の洞察からでしか得られない知が、たしかに存在しているように思えるからだ。その要諦は、共依存が病的な関係であるという見方を括弧に入れて、それを親密な関係の一つの形として見つめることで、倫理の臨界へとアプローチする点にある。共依存を治療対象や解消すべき関係としてネガティブに捉える一般的な思考は、「いやほんとうにそう言い切ってよいのだろうか」と、否応なく揺さぶりをかけられる。
こうした観点から共依存の学説史を捉え直したものが『共依存の倫理』であるとすれば、本書『共依存とケア』は、いわばその事例編として位置づけられよう。本書では、一般的な善悪の基準では測れない共依存者たちの物語が、三部構成で丁寧に読み解かれていく。第Ⅰ部では、親密な関係において「共依存的」な関係を抱える人々の語りに。第Ⅱ部では、金原ひとみや嶽本野ばらの小説や、ドラマ版『白夜行』などのフィクション作品で描かれている、共依存関係のもたらす破滅と救済(のリアリティ)に。第Ⅲ部では、一般論では過剰・危険とみなされかねない特殊な親子のケア関係を、既存の倫理観とは異なる「別の物語」で語ることに、焦点が当てられる。なかでも、アルコール依存症の内縁の妻との共依存経験をインタビューで語りたがる社会学者の薫さんの物語と、同居中の母親を金銭的に養い続けるパチプロの佐々木さんの物語は、まったく他人事とは思えなかった。それは、評者もまた共依存傾向のシスヘテロ男性である、という理由からだけではなさそうだ。「ふるいにかけられる声を聴く」とは、自らがふるいにかけてきた生、およびふるいにかけられてきた自らの生に気づくことでもあるのだろう。
これらの物語を経たうえで要請される、倫理的な態度がいかなるものであるかは、本書の終章で実際に確認してもらいたい。一点だけ述べておくと、小西は、共依存的な関係から生じるあらゆる事態を無条件に肯定する立場をとっているわけではない。むしろ、本書において小西は、「ふるいにかけられる声」をすくいあげる際に、考えうるパターンを慎重に検討したうえで、留保をつけるスタンスを貫いている。例として、第2章の、共依存者とその周りの友人たちの関係性をめぐる議論を見ておこう。ふつうの友人が、専門家にかかるべき共依存者のケアを全面的に引き受けると、たとえば重大すぎる悩みを繰り返し聞かされるなどして摩耗してしまう恐れがあり、それゆえ一般的な支援の文脈では、友人がキーパーソンに据えられることは少ないという。だが、支援につながれない/つながらない者にとっては、公的機関や自助グループに赴くなどの「行動を起こす」こと自体にハードルがともなう場合もある。これらを踏まえたうえで、小西は共依存者にとっての「身近な友人」がなしうる、部分的な関わり方を模索しつつ、次のように問いかける。「当人の人生の大部分を背負い、支えることを可能にする側面をもつものとして共依存関係を肯定的に捉えるときに、身近な友人たちは、当人の断片を少しだけ引き受けることのできる存在になりえるのではないか。(中略)このように部分的だけれど、それでもその部分に関しては、真実としか言えないような関わり方を維持することに、共依存をめぐる友人関係の可能性を見出したいと考えているのである」(45頁)。
以上のような、幾重にもわたる留保をいとわない小西の筆致は、人によっては迂遠にうつるかもしれない。けれども、社会の分断が深刻化し、一元論的な主張は――たとえそれが弱者の救済という「正義」を意図したものであっても――対立を招きかねない現代にあっては、個々のケースに針を通すような細やかな思索を繰り返すことが、ドミナントな規範から外れたあまねく生を肯定するための方途になる。「部分的だけれど、それでもその部分に関しては、真実としか言えないような」あり方で、ある者の生を肯定し、それを別の誰かに伝えること。そのようなコミュニケーションの可能性を感じさせる一冊でもあると、付言しておきたい。(なかもり・ひろき=立教大学文学部・社会学)
★こにし・まりこ=大阪大学大学院人文学研究科准教授・臨床哲学・倫理学。著書に『共依存の倫理 必要とされることを渇望する人びと』など。
書籍
| 書籍名 | 共依存とケア |
| ISBN13 | 9784791777464 |
| ISBN10 | 4791777468 |
