市田 良彦著『思想のエチカ/ポスト68年のエチカ 哲学・政治著作集Ⅰ・Ⅱ』(航思社)を読む
石川 義正
「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」。『徒然草』の名高い一節は語りの形式をカントと共有している。啓蒙とは「人類の未成年状態からの脱出」であり、その基準は自らそう思うこと(「あえて知れ!」)だと「預言」するカントである。続けて兼好法師はこうもいう、「偽りても賢を学ばんを、賢といふべし」、見せかけでも賢人に学ぶような人は賢人と呼んでいい、と。
語りの形式とは、つまり「同語反復」である。私は狂人であると語る私が狂人であり、私は大人だと語る私が大人である。「真似」「偽りても」と兼好は述べている。こうした語りの二重化は私自身が何者かに眼差された「場面」であり、何者かとは「私」自身でもある。それがカントの「アクチュアリティ」なのだ、とフーコーのカント読解に沿いつつ著者はいう。「「私」が一人で「私」を名乗り、それが当の「私」と「齟齬」を来す「感覚」をシーンとして生きる/見る/体験する「私」とは、「狂人」ではないでしょうか」。この「生きる/見る/体験する」場面を、アルチュセールは「状況」あるいは「出会い」といい、ランシエールは「感覚的なものの分有」といった。だからそれは一種の「演劇モデル」である。この舞台には自動機械たる「構造」以外に「作者」がおらず、芝居を演じる「役者」は「観客」でもある。構造とは資本主義のことであり、役者=観客は同時に労働者であり資本家であるといってもいいが、要するに自分の肉体という資本しか持たない事業主、否応なく出資者にしてアントレプレナーたらしめられている私たち自身である。フーコーにおける「狂気」や「統治性」といった主題もこうした「分有」によって特徴づけられている。正常と狂気は、統治するものと統治されるものは、まさにお互いに似た者同士であるがゆえに雌雄を決しようとするのだ。
フーコーによれば「パレーシア」とは「これが真実だ」と言い、かつ「私は「これが真実だ」と言った者である」と言うことだから、形式としては「狂人」の語りとまったく同じである。パレーシアストは自らの死を賭して「真実」を語る。だが、自分の言説を賭物にしているという点では、自らの詭弁に金銭を賭けるソフィストも同様である。パレーシアストとソフィストと狂人は同じタイプの言説を発話している。すなわち真実と正義が一致する──それによって狂人やソフィストを排除する──言説ではなく、真であることと偽であることが一致するタイプの言説、「錯覚」としての言説である。
フーコーにおける歴史上最初のパレーシアストは、古代ギリシャの戯曲『イオン』に登場するクレウサである、と著者は述べる。クレウサは自分をレイプした神アポロンに対しては呪詛と真実を語り、夫クストスに対しては虚偽を語る。彼女による真実と虚偽の二重体の言説が都市国家アテナイの起源となったのだ。クレウサのパレーシアがアテナイ市民の「我々」という「主体」を生み出す。統治する主体、つまり「政治的パレーシア」だ。『イオン』読解は前著『フーコーの〈哲学〉――真理の政治史へ』(岩波書店、二〇二三年)でも分析の中核をなしていたが、本書Ⅰ巻『思想のエチカ』所収の「ソフィストはいかにしてパレーシアストになったか」ではフーコーが政治的パレーシアと「哲学的パレーシア」、「倫理的パレーシア」を区別していることがより強調されている。真実と虚偽を同時に抱える「我々」の歴史上の役名は、一八世紀フランスの反動貴族であり、「民族nation」であろう。ただしアテナイ市民の「我々」とは異なり、彼ら自身の怒り、情念、凶暴な非合理性から「真実の言説が炸裂する」。二重体の構造をもつ「我々」の統一性が──真と偽の矛盾に「我々」と「やつ(ら)」という垂直軸の分裂が導入されることで──必然的に内破するのだ。著者のいう「統治」に対する「政治」、統治の可能性に対する統治の不可能性とは、こうした「主体の形成を自ら阻む主体形成過程」を指している。政治的パレーシアの次に哲学的パレーシア(プラトン)が登場するのは、炸裂する二重体としての「我々」がそのまま個人のなかに移行したからである。哲学的パレーシアが必然的に「政治」的であるしかないのは、この移行によってであろう。Ⅱ巻『ポスト68年のエチカ』所収の「「俺が党だ」──ポスト〈六八年〉の理論的悲哀」には、一九七〇年代末に「一人同学会」と称された学生活動家としての著者自身の「遍歴」が回想形で描かれている。回想というバイアスを除いても、「党」としての同学会が一人に至る過程は政治的パレーシアの内破そのものである。著者の「哲学」の輪郭は、あたかもそこからアルチュセール研究を経てフーコーのパレーシア論に至る、その体験の理論化のように見えてくる。そこには存在の一義性が貫いている、といってもいいのだが。つまり二巻からなる二重体としての本書の、思想史家でありかつ活動家であった二つの「主体」の──「闘う」ことの──一義性である。
しかし逆にいえば、政治的パレーシアが含意する「神」を破壊せずに温存している哲学的言説はすべて「統治」のアナロギアにすぎないことになる。著者が示すランシエールの「普遍的知性という最終審級」や小泉義之の「超越性=霊性」への痛烈な批判の根拠はここにあるはずだ。「「現代思想」は「政治」を革命、蜂起、転覆、等々とラディカルに考えれば考えるほど、理性の根本的な敵として狂気をはるか昔に設定していた「統治性」に近づくだろう」。間違いなく著者その人をも含む「現代思想」が「「統治リベラリズム」の後追い」にすぎないとして、だとすれば本書の「アクチュアリティ」はそれとは異なる「統治の不可能性」の「後追い」、ネーションの内破との類似を招き寄せることにもなる。つまり──著者が十分に自覚的であるように──「アメリカの凋落は移民と中国のせいだ、それが真実だ!」と叫び、「世界はディープステートに支配されている、それが真実だ!」と叫んでアメリカ合衆国大統領に再選されたドナルド・トランプに、である。トランプは狂人のふりをして大路を走る狂人だろうか、それともディープステートの真犯人を追って己を発見してしまったオイディプスの戯画だろうか。
フーコーが哲学的パレーシアと入れ替わるようにして最終年度の講義で掲げた倫理的パレーシアは──ちなみに「エチカ」の一語は、本書では「アジテーター」としての長崎浩に捧げられている──「真実を語る」にあたってもはや言葉を必要としない点を特徴としている。「真理の「一筆書き」として、彼はパレーシアそのもののパントマイムを演じるのだ。「政治」と「哲学」に、「全体」と「個別」に、分割される以前のパレーシアのマイムを。彼はコスコポリタンだろうか。おそらくそうだ。けれども純粋な〈権力-知〉あるいはその裸の骨格である」。本書の跋としても構わないのかもしれないこの文の、「彼」とはフーコーのことなのか、それともトランプか。だが類似を招き寄せたのは他ならぬ本書──実は書名が存在しない──の著者である。私にはそれが彼自身の生を後追いした「預言」のようにも読める。(いしかわ・よしまさ=文芸評論家)
★いちだ・よしひこ=神戸大学名誉教授・社会思想史。著書に『フーコーの〈哲学〉』『ルイ・アルチュセール』『存在論的政治』『革命論』、訳書に『哲学においてマルクス主義者であること』『終わりなき不安夢』『悪をなし真実を言う』など。一九五七年生。
書籍
| 書籍名 | 思想のエチカ |
| ISBN13 | 9784906738557 |
| ISBN10 | 4906738559 |
