2025/04/18号 3面

強制送還の国際社会学

 ドナルド・トランプが二期目を手にする中で終章が書きあげられた本書は、米墨両国を行き来するヒスパニック系が直面する状況が、ますます厳しさを増すことを確信させる。と同時に、私たちがいかに自らの立ち位置を基軸にものを考え、その視野から消えた人びとに無関心であるかに気づかせてくれる。本書の舞台は北アメリカ大陸であるが、日本社会において私たちが見ようとしていない存在について、再考させられる作品でもある。  著者の博士論文を土台にまとめられた本書は、徹底した現場主義を取る。国境を越えて追う調査対象者一人一人のライフヒストリーを丹念に描き、それぞれが自らの存在をどのように自覚し、周囲からどのように判断され、またそれらを踏まえて著者がどのように考えたのかが述べられていく。何年にもわたり描き出される調査対象者の人生を、共に辿る読者は、彼らと共に悩み、悲しみ、そして何らかの解が見出されることに期待を寄せる。評者も難民を追ったことがあるが、研究者の現地調査の積み重ねを超える早さで国内外の環境が変動し、調査対象者自身も変化していく。長い年月をかけた調査が描き出すライフヒストリーからは、そうした奥の深さが伝わり、興味が引かれる。  本書はまずアメリカの中のヒスパニック系移民から話を始める。出身地がメキシコの都市部か農村コミュニティかという違いが、アメリカ社会での移民の暮らし方の違いに反映される。著者はその違いを出発点として、メキシコでのそれぞれの出身地に調査地を移す。焦点を農村に絞った著者は、米墨双方の調査地を繫ぎながら、移民の姿を描き出していく。数として扱われがちな移民であるが、その数字の裏に多様なライフヒストリーが展開し、そこからは、目の前に立ちはだかる制約を、一つの家族として生きるために乗り越えようとする人びとの力強さが読み取れる。特に農村コミュニティに入って調査する著者の前には、外国人でかつ若い女性であるという二重の障壁が立ちはだかるが、それを乗り越えていく著者の姿には凄みすら感じられる。  アメリカの移民を政治学から研究する評者は、非合法移民の課題は立法での解決こそ根本だと考えるが、その新たな立法が20年以上も滞るアメリカ社会は、行政措置や聖域都市という手段で弱い立場にある移民に手を差し伸べる。しかし、移民が守られる地域と敵視される地域の分断が激しいのが現在のアメリカ社会である。その中で、時間をかけても正規のルートを探ろうとする人びと、非合法でも生きるすべを見出そうとする人びと、アメリカを諦めメキシコでの暮らしを再構築しようとする人びと、それぞれの判断に何が影響をしてきたのかを、本書は丁寧な聴き取りを通して解き明かしてくれる。  男性のメキシコ移民が、危険を冒しながらもコミュニティ構成員としての義務を果たそうとするモラル・エコノミーの機能が、女性移民のメキシコへの視線と対比される。メキシコでは当然の男性を柱とする関係性が移民先のアメリカには馴染まない中で、女性を対等に組み込んだ制度が生み出される経緯も面白い。個々の調査が描き出すミクロの移民像が、実はマクロな環境の中で行われているという相互関係が本書を通して描き出される。逆転させて考えるならば、マクロな環境を改善させる力があれば、移民の選択肢はさらに広がるのではないか。  そもそも人は移動するものなのか。今日でも移動する人々は全世界の人口の3パーセント、つまり97パーセントは生まれた土地で一生暮らしている。難民研究の分野では、移動は人間の安全保障を損なう危険を伴うが、その人間の安全保障を守るための死活的手段でもあるという矛盾が指摘される。多面性を持つ人の移動に一つの名前をつける不合理も課題だが、そもそも危険を伴うメキシコ人の移動にとっては、移動しなければ暮らせない状況に対して政治が答えを出せない点こそ根本的な課題だと考えるのは、政治学者の性なのか。(おおつる〔きたがわ〕・ちえこ=関西大学法学部教授・国際政治学)  ★いいお・まきこ=一橋大学大学院専任講師・国際社会学。

書籍

書籍名 強制送還の国際社会学
ISBN13 9784815811907
ISBN10 4815811903