死ぬまで落ち着かない
鶴見 済著
土佐 有明
鶴見済のような文章が書きたくてライターになった。それも、ミリオンセラーを記録した『完全自殺マニュアル』や『檻の中のダンス』『人格改造マニュアル』といった、太田出版から刊行された初期の著作に影響された。だから、鶴見が久々にその太田出版から「人生後半の新しい生き方と激動の半生」を綴った著作を上梓すると聞いて心待ちにしていた。
60代を迎えた鶴見の実感が込められた本である。鶴見は中高年になってもいっこうに気持ちが落ち着かない、という。60にして惑わず、どころではない。達観するイメージのあった60代になっても、どっしり構えることなどできず、うろたえてばかりだというのだ。
年を重ねれば人は賢くなり、悟りに近づくのだという『論語』の教えが浸透している現代だが、鶴見はそれに異を唱える。当の60代が言うだけに、この指摘には一定の説得力がある。人は「成長」するのではなく「変化」するだけだ、と思うことが私もよくあるが、それに近いのかもしれない。
むろん、悩んでばかりだった若い頃に較べ、経験や知見を蓄積することで、良い方向に変化した、という例もあるだろう。私は今51歳だが、うつや自意識過剰に惑わされていた20~40代に較べると、自分の操縦法が分かってきた。迷い、戸惑うこともだいぶ少なくなった気がする。それでも当然、中高年になれば若い頃とは別の悩みに苛まれることはある。死を間近にした親の体調は心配でならないし、自らの体力の衰えも如実に感じる。若い時には若い時の、老いた時には老いた時の不安や悩みが、それぞれ消えることはない。鶴見はそう言いたいのだろう。
鶴見の実体験に即したエピソードには腑に落ちるものが多い。例えば、「運動神経は学校を出たら役に立たない」という説。学校における運動神経の神格化は異常だという彼の言い分はもっともだ。スポーツができるかどうかによって学校内での人気や序列が決まっていたあの風潮は確かになんだったのだろうか、と思わされた。小学校や中学校の頃など、勉強ができるか、容姿が整っているか、と同じ、いや、それ以上にモテる要因のひとつも運動ができるかどうかだった。だが、そんなものは社会に出たらなんの役にも立たない。そうした経緯ですっかり運動嫌いになった鶴見が、50を過ぎてからようやく走り始めるようになった、という話もおもしろい。
この世界があまりに運まかせであり、自分の将来に与えられる影響のうち、個人の力など半分以下だ、という主張も頷ける。人生はいわば巨大なパチンコ台のようなもので、必死に努力しても報われないことなど当たり前。いくらなんでもアナーキーすぎるだろう、と思うこともある。〈人生を支配するのは幸運であり、英知にあらざるなり〉とローマの政治家/哲学者であるキケロも述べているのではないか。
「体も心もすこしずつ流れ出ている」という章にも蒙が啓かれた。鶴見は、自分の抜けた髪や切った爪、薄めた尿を植木鉢の肥料にしてきたという。つまり、私たち人間も、死んだ後は物質としてこの世界を循環するという思想を、鶴見は抱いている。人間の肉体も自然に還ってから始まるのであり、その意味で生前から死は徐々に顔を覗かせているということだろう。
冒頭で述べた『完全自殺マニュアル』は、いつでも死ねると思うと気が楽になり、逆説的に生き辛さが軽減されるという思想に基づいている。そのために彼は夥しい数の自殺の方法を詳細かつ具体的に記したのだ。同書は、死にたい人が読む実践書だと勘違いされてバッシングされたわけだが、その根底にある発想はむしろ逆である。従って、同書はむしろ自殺を抑止したのではないか、と私は思っている。
どうしても死にたくないと考え、生を過剰に美化する時、やはり人は余計生き辛くなるのではないか。そう考えると、同書が発売されてから30年、鶴見の思想は一貫していることを思い知らされる。ドストエフスキー『悪霊』に登場する〈生を愛するが故に死を恐れる思想は欺瞞である〉という台詞を思い出しながら味読した。(とさ・ありあけ=ライター)
★つるみ・わたる=文筆家。つながりづくりの場「不適応者の居場所」を主宰。著書に『完全自殺マニュアル』『人間関係を半分降りる』など。一九六四年生。
書籍
| 書籍名 | 死ぬまで落ち着かない |
| ISBN13 | 9784778341084 |
| ISBN10 | 4778341082 |
