2025/05/09号 5面

鳥の心臓の夏

鳥の心臓の夏 ヴィクトリア・ロイド=バーロウ著 上原 尚子  サンデーは白い食べ物しか摂らない。色のついたものを飲み込むと〈喉と体が焼けるように痛くなる〉からだ。他人と会話するとき、相手の言葉を受け止めてから反応を返すまでに時間がかかる。ちょうど、テレビで国際中継を見ていると言葉のやりとりに微妙なズレがある、あの感じだ。そして音の響きに敏感で、話す相手の発音を心の中でまねせずにいられない。こうした自身の特性について主人公のサンデーが語るところから、本書『鳥の心臓の夏』は始まる。  実はこれらは、自閉スペクトラム症(ASD)であることを示す特性だ。近年、ASDへの認識が高まり、ASDであることを公表する著名人も珍しくなくなって、社会的関心は以前と比べればかなり高まっている。しかし、この障害がどういうものなのかについての具体的な情報は、まだまだ広まっていないのが現状ではないだろうか。  サンデーは、景色が美しいことで知られるイギリスの湖水地方の一軒家に、高校に通う十六歳の娘ドリーと二人で暮らしている。両親は早くに亡くなっていて、十八歳までは後見人のフィリスに毎日様子を見に来てもらい、生活してきた。十八歳でアレックス(通称キング)と出会い、結婚して娘のドリーを出産するが、結婚生活は長くは続かず、今は元夫の両親が経営する農場で働いて食料を得ている。質素だけれど、静かで穏やかな日々だ。  ある日、二階の窓のカーテンを開くと、隣の家の芝生に見知らぬ女性が横たわっているのが目に入る。間もなく玄関のチャイムが鳴り、出てみると、そこには先ほどの女性、ヴィータが立っていた。隣家の持ち主から夏の間、家を借りたのだと言う。癖のあるアクセントで話し、大きく口を開けて笑う開放的なヴィータの華やかさに、サンデーは圧倒されながらも心惹かれていく。  その日からヴィータとその夫のロロとの交流が始まり、毎週金曜日にはドリーを連れて隣家を訪れ、四人で夕食を楽しむようになる。自分の特性について大げさに反応することなくすんなり受け入れてくれる隣の夫婦に、サンデーは次第に心を許していく。そして母親との単調な生活に物足りなさを感じていた娘のドリーも、隣家の彩り豊かな食事や刺激的な会話を喜び、徐々にヴィータと過ごす時間が増えていく。  八月になり、ドリーの祖父母が毎年開くガーデンパーティーの日がやってくる。サンデーは気乗りしないながらも娘のために出席するが、そこで待ち受けていたのはある衝撃的な知らせだった。それは……。  本書の著者であるヴィクトリア・ロイド=バーロウは、自身もASD当事者だ。でなければここまで細やかに、そして鮮明に、サンデーの心情を綴ることは不可能だっただろう。サンデーは、自分の特性が人々にどのように受け止められるかを常に意識して生きている。淑女の礼儀作法を説く本を丸暗記し、そこに書かれていることを忠実に守ることで、周囲からなるべく浮かないように自分をコントロールしているのだ。大きな声を出さない、不必要に手を動かさない、相手が冗談を言ったと判断したら意味が理解できなくても決まった反応を返す。  そうやって注意深く生活していても、周囲からサンデーは異質な存在と見られてしまう。本書はサンデーとヴィータの関係が徐々に変化していく様子を軸に展開するが、そこにサンデーが経験してきたさまざまな出来事が挿入されていく。読者はサンデーの視点から、そうした出来事を追体験していくことになるのだ。それは、本書を読まなければ得ることできない貴重な経験だ。  二〇二三年に刊行された原作『All the Lit―tle Bird-Hearts』は同年、ブッカー賞候補作の一つとなった。自閉スペクトラム症の作家の作品がブッカー賞候補となるのは、本書が初めてとのことだ。それだけ、読むべき価値がある小説ということだろう。ASDの特性を生かすことで、人の善意と悪意が表裏一体である様を見事に描き出したロイド=バーロウに心からの賛辞を贈りたい。(上杉隼人訳)(うえはら・なおこ=翻訳者・ライター)  ★ヴィクトリア・ロイド=バーロウ=イギリスの作家。デビュー作である本作で、自閉スペクトラム症の作家として初のブッカー賞候補となる。現在は創作活動を続けながら、自閉スペクトラム症と文学の関係について積極的に発言している。

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