都市三十六景 江戸の残像
井田 太郎著
谷口 功一
本書は、遠からず姿を消す時を迎えるであろう江戸=徳川時代の残像を街や川の「地霊=ゲニウス・ロキ」の声に耳を澄ましながら記し留めんとする遊歩者(フラヌール)の手になるものである。
平たく言うなら「ブラタモリ」と先日帰天した山田五郎がやろうとしていたことを限界濃度にまで高めたものと評しても差し支えないだろう。
一九世紀、近代化のなか失われゆく「古いパリ」の残像を記し残そうとしたドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンは、これといった目的もなく都市の群衆の中をぶらぶらと歩き、街の景色や人間模様を観察する者をフラヌールと呼んだ。
本書は、群衆の中にありながら自らの孤独を楽しめる特権的な観察者としてのフラヌールであると共に、俳諧と近世絵画を専門とする著者の縦横無尽な博捜ぶりによる〈知のフラヌール〉としての面目も躍如させるものとなっている。
書評子もかつて夜の街をめぐり歩く本を書いたことがあるが、街の遊歩者としての著者の都市論には深く頷くところが多い。特に近代以降、震災と戦争(空襲)をくぐり抜けてきた東京の転変についての数々の箴言とでも言うべき幾つかの下りである。曰く「高温多湿で地震の多いこの国だと…永劫の普請を繰り返す」、「戦後、東京の都心が失った風景の一つは川である」、「街は新陳代謝を繰り返す、街そのものも生きているので必要なことであろう」、そして「今このときを慈しめない人間に、歴史など大事にできるわけがないだろう」と。
本書の白眉は二つある。一つは、昭和天皇即位を祝って描かれた鏑木清方「讃春」と二〇二〇東京オリンピックに際して描かれた山口晃「馬からやヲ射る」の反復的共鳴である。先述の通り「永劫の普請」を繰り返さざるを得ないがゆえの反復と共鳴のありように読者は一驚を喫することとなるだろう。詳細は読んでのお楽しみである。
いま一つは、第十二章「両国・本所」である。この章こそが本書のピークをなしているといっても過言ではないだろう。元禄大地震の結果生まれたこの土地が再び関東大震災に襲われ余燼くすぶる中を歩いた内田百閒は次のように回想している――「生きてゐ間は、実にそつけなく附き合つたが、ゐなくなると一生懸命に探し、ゐないときめた後は又いつ迄もその思ひ出に取り縋らうとする」と。
著者は、人ならぬ街もまた、そんな存在なのだと説く。この章の末尾では小林清親「両国花火之図」がオモテ表紙に使われた謎解きもなされることとなるが、一読委細を知るなら、読者はしみじみとした感慨に耽ることとなるだろう。
書中、何度か能楽の「弱法師」が引かれるが、盲目の乞食となった俊徳(弱法師)が「常に見馴れし境界なれば」と、かつて目が見えた時に見知った大阪湾の大パノラマを叙した(満目青山は心にあり)ように、本書に描き出された街々の記憶は、俊徳が「覚えた致景の数々」を挙げて舞ったがごとくに、著者の脳裏に膨大なテクストを介して甦る失われた景色なのである。
冒頭、エピグラフにはパリ市の紋章に刻まれた「漂えど沈まず」という標語が掲げられている。私はこれを開高健の『地球はグラスのふちを回る』(新潮文庫、1981)で知ったと記憶しているが、同い歳の著者の来し方三〇年ほどの漂う遊歩者としての歳月には、ただならぬ共感を抱く箇所も少なからずあった。
「歩いて身体に地図を叩き込んでいた」著者と同様、バブル終焉の長い入日の残光が漂う時代に、同じ街区を同じ路を同時代に歩いたであろう日々が、本書を読むとありありと甦ってくるのである。
するりと口に入って精妙な味わいを残す風味絶佳の菓子が三十粒以上入った宝石箱のような本である。日本語表現の妙が尽くされている点でも比類ない一冊であり、一章ひと粒ずつ残りを惜しみながら読書の愉楽を尽くすことが出来るだろう。
なお、副題に「三十六景」とあるも一景を敢えて欠いているのは、読者に深い余韻を残すに違いない。(たにぐち・こういち=東京都立大学教授・法哲学)
★いだ・たろう=近畿大学教授・日本文学。著書に『酒井抱一』、共著に『原本『古画備考』のネットワーク』『近代学問の起源と編成』『日本の夜の公共圏』など。一九七三年生。
書籍
| 書籍名 | 都市三十六景 江戸の残像 |
| ISBN13 | 9784560025925 |
| ISBN10 | 4560025924 |
