2026/04/17号 5面

DANGER

DANGER 村山 由佳著 かげはら 史帆  一九八二年生まれの私が、最初にバレエを習ったのはおばあちゃん先生だった。子供の目からそう見えただけで、実際にはおばあちゃんと呼ぶのは失礼な年齢だったかもしれないが、戦前生まれだったのは間違いないだろう。もしかしたら、戦局の悪化によって活動を中断したり、人目を忍んで稽古をしていた時期もあったかもしれない。それも、未来への希望にあふれた、バレリーナとして伸び盛りの年頃に。  残念ながら、私は先生からそうした話を聞く機会には恵まれなかった。先生が教師の仕事を引退したときさえ、私はまだ小学生で、爪先を「あんよ」と呼ぶ優しいおばあちゃんの過去に思いを巡らせるにはあまりに幼すぎた。だがいずれにせよ、一九八〇年代から九〇年代は、戦争体験を経てバレエに従事している年配者がまだ大勢いた。「DANCER」であることと「DANGER」であることが紙一重だった時代を生きた人たちが。二十一世紀も四半世紀を過ぎたいまとなっては、彼らからじかに話を聞くことは望んでも叶わなくなりつつある。創作の力で、時代の針を巻き戻さない限りは。  村山由佳の最新小説『DANGER』は、西洋芸術に身を捧げた先達から戦争体験を「聞く」ことが、まだ可能だった時代の物語である。舞台は一九九二年。熊川哲也がローザンヌ国際バレエコンクールでゴールドメダルを受賞してから三年後、日本のバレエ界がかつてなく活気づいていた頃だ。主人公の若手編集者・長瀬一平と、先輩編集者の水野果耶は、雑誌のバレエ特集を共に手掛けるなかで、「大正九年生まれの七十二歳」であるバレエダンサーの久我一臣に連続インタビューをする好機を得る。久我の人生の回想は、鎌倉の幼少期に始まり、エリアナ・パヴロヴァ(日本にバレエを普及させた功労者で、実在の人物である)への師事、上海での研鑽を経ての満州での衛生兵としての従軍、そして過酷なシベリア抑留の生活へと移っていく。  絶妙な時代設定である。一九九二年は、戦争体験を経て生き延び、いまも活動を続ける大正生まれのダンサーと、戦争を知らない二十代のインタビュアーたちが邂逅できる、本当にぎりぎりの時代だ。小説は、主人公・長瀬のバブル世代らしい軽妙な一人称で幕を開けるが、途中から、久我の半生を描いた取材記事が挟まれる。久我へのインタビューを再構成したこのノンフィクション風の記事を綴るのは、バレエ経験者である水野だ。彼女は久我への取材と執筆を通して、かつてバレエを挫折した自身の過去と向き合っていく。  さらに本作がユニークなのは、中盤から、もうひとつの別の物語が動き出す点である。翠という少女を主人公にしたこの第三の物語は、一見するとオーソドックスな三人称小説のようである。水野による久我の取材記事とは異なり、この物語にはインタビュアーの存在感はない。だが、翠と水野の祖母との関係性や、従軍時代の久我との接点が明かされるにつれ、この物語にもまた若い「聞き手」が潜んでいたことに気づかされる。つまり本作は、戦争体験者の語りを次世代が聞き、それを再構成して語り直すというスタイルの物語をふたつも内包しているのだ。  一九六四年生まれの村山は、父親からかつて聞いたシベリア抑留の体験をもとにこの小説を書いたと明かしている。本作の要は、年長者の戦争体験のみならず、それを知らない世代が「聞いて」「語り直す」いとなみにこそある。久我は水野が書いた記事を読んで「なんだか小説みたいだ」「私ではない別の誰かの人生みたいに思えてくる」と言うが、自身の人生が第三者によって語り直されることを決して否定しない。個人の体験が、作品化されることではじめて時代を超えうることを、彼は芸術家として本能的に理解しているのだろう。激動の時代を生きた彼は知っている。やがては「聞いた」世代もまた去っていき、個々人の体験は風に流れて消え去っていくことを。言葉や記憶は、作品として昇華させなければ、未来の世界に残らないことを。その大いなる危機の心から生まれたのが、久我が終盤で手掛ける戦時をテーマにした創作バレエであり、そしてこの小説であろう。(かげはら・しほ=作家)  ★むらやま・ゆか=作家。著書に『星々の舟』(直木賞)『ダブル・ファンタジー』(柴田錬三郎賞、中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞)『風よあらしよ』(吉川英治文学賞)「おいしいコーヒーのいれ方」シリーズなど。一九六四年生。

書籍

書籍名 DANGER
ISBN13 9784103399537
ISBN10 4103399538