社会学
石岡 丈昇
新たな切り口から社会学を組み立てなおす良書が出た一年だった。渡邉悟史『生き物の死なせ方――共生・共存からはみ出した生物たちの社会学』(ナカニシヤ出版)はその代表的一冊。この社会は、生き物――本書では外来生物や野良猫の事例などが取り上げられる――に対して、どのような死なせ方を構成しているのか。そして生き物は死んで終わりなのではない。死体は微生物や昆虫に取り付かれ、それらとの新たな組み合わせが誕生する。死体はさまざまなことを執りおこなっているのだ。死体と化す生き物を注視するフィールドワークから、この社会の作動を把握する社会学的思考。
渡邉の本でも用いられている死政治という概念については、アシル・ンベンベ『ネクロポリティクス――死の政治学』(岩崎稔・小田原琳訳、人文書院)を参照されたい。生きるか死ぬかではなく、生かすという機制を問題化したのはミシェル・フーコーだった。そのフーコーの生政治論を引き継ぎつつ、パレスチナやアパルトヘイト体制の南アフリカにおける植民地占領の現実から、人間を生かすだけでなく死へと遺棄する機制へと問題をシフトしたのがこの本である。現在、世界中で議論されている死政治をめぐって、最重要作が邦訳されたことの意義は大きい。
廃棄という行為をめぐっては、梅川由紀『ごみと暮らしの社会学――モノとごみの境界を歩く』(青弓社)がユニークな考察を進めている。ごみを問題としてではなく生活文化として捉える作業。たとえば、箒で「掃き出して」いたごみは、掃除機が普及すると「吸い取る」ようになる。新しい道具を作り上げることは、新たなごみとの関係を作り上げることなのだ。ごみ屋敷のフィールドワークを詳述した章からは、モノとごみの境界について考えさせられる。ごみもまた死体同様にさまざまなことを執りおこなう。
陳怡禎『東アジアの社会運動とサブカルチャー――語り続ける台湾と香港の若者たち』(明石書店)は、二〇一四年に生まれた台湾のひまわり運動、香港の雨傘運動を、そこに参加した若者たちの趣味実践と接続して論じた作品。社会運動と趣味は、両極のものと捉えられがちだ。社会運動は公的な課題を訴え、趣味は私的な楽しみの実現といったように。だが社会運動の現場からわかることは、両者が切れ目なくつながっている点だ。推しグッズを作って身につけた技能が、デモの抗議グッズ作成に活用される。趣味と蜂起が連続する。サブカルチャーの趣味の世界を楽しむことは、私的世界に閉じこもることと同義ではない。
武内今日子『非二元的な性を生きる――性的マイノリティのカテゴリー運用史』(明石書店)は「ジェンダー非順応な人びと」をめぐるカテゴリーがどのように用いられてきたのかを資料とインタビューから丹念に解きほぐす。ここでもネットや雑誌の存在が、いかに性をめぐるカテゴリーの定着や運用と結びついているのかを知ることができる。また、インタビューを通じて、可視化されていなかったインターネット上のグループの存在も現れてくる。
差別をめぐっては、五十嵐彰『可視化される差別――統計分析が解明する移民・エスニックマイノリティに対する差別と排外主義』(新泉社)が貴重な仕事だ。移民と排外主義について統計分析をもとに論じたアメリカや西ヨーロッパの諸研究を手際よく整理し、日本語圏に紹介するという重要な作業がおこなわれている。差別の社会学研究を進める人びとは、まず読むべき一冊。
吉田航『新卒採用と不平等の社会学――組織の計量分析が映すそのメカニズム』(ミネルヴァ書房)は、企業の採用行動から不平等を考える実証研究。女性管理職の増加はジェンダー不平等を緩和するのか? ダイバーシティ部署の設置は雇用の平等化をもたらすのか? 私も知りたかった論点が検証されていく。不平等については、出自やジェンダーなど諸個人の特性に着目した研究が進められてきたが、本書は企業という組織に力点を置いて、新卒採用とその後の定着過程に現れる社会的不平等の仕組みに迫る労作。
社会理論の著作では、アンドレアス・レクヴィッツ『独自性の社会――近代の構造転換』(橋本紘樹・林英哉・中村徳仁訳、岩波書店)を取り上げたい。ドイツ社会学界を牽引する有名な社会学者の主著。「独自性
(シンギュラリティ)」という切り口から社会を問うことの魅力を教えてくれる。(いしおか・とものり=日本大学教授・社会学)
