2026/10/02号 3面

論潮・10月(高原太一)

論潮 <10月> 高原太一  今月の論壇誌を読むなかで、まず目を引かれたのが、『文藝春秋』の表紙絵だった。兄弟らしき二人の青年が、瓦屋根に腰かけて、猫たちと戯れている。一人は、身体をよじって振り向きながら遠くの街並を眺めている。その隣に座った猫も、一緒になって街の方角を見つめている。もう一人は、足元に集まってきた猫を抱きかかえながら、ただぼおっと時が過ぎる贅沢を楽しんでいるようだ。どこかホッとする、それでいて何かを語りかけてくる不思議な魅力をたたえた作品である。タイトルは「みんなここに居る」。  作者の村上裕二さんが、「表紙の言葉」として、次のような説明を加えている。「夏が過ぎて段々涼しくなる。一〇月は外でウロウロしたくなる。旅行も良いが、手近な場所で「屋根」に上るのはどうだろうか。勿論、いろいろ注意しなくてはならない。緊張感を持って上る。すると見える景色が違ってくる」(七九頁)。  秋というのは、夏の終わりであると同時に、冬の先に到来する春を思い浮かべて少し不安になる、そんな季節でもある。学生時代ならば、進路という現実が顔をもたげる。  『世界』の特集1「デジタル空間の野蛮」に寄稿された弁護士の平澤慎一さんによる「投資詐欺と若者たち」は、将来に悩み、不安を抱えた若者たちの心につけ入る、現代的な詐欺(投資/副業ノウハウ詐欺)を扱っている。その手口は以下のように巧妙極まりない。まず若者がSNS上で「簡単な作業で稼げる」や「簡単に儲かる」などの広告に関心を持ってウェブサイトに登録すると、間髪を入れずにサイト業者からLINE電話やZOOM会議の案内が来る。そして、業者は、消費者金融からの借り入れを若者に勧める。それからのやり口は、オレオレ詐欺と類似しており、若者は借り入れの手続きの際、ずっと通話をし続けるように仕向けられ、他の人に相談する暇は与えられない。その後は言わずもがな、業者に金を振り込んだあと、連絡がつかなくなり、若者の手元には百万円を超える借金だけが残る。平澤によれば、「これらの詐欺の手口はSNSなどを駆使することで、若者がサイトに登録したその日や翌日までに完遂されることも珍しくない」(七七頁)という。  それでは、なぜ、若者たちは、リスクのある投資へと気軽に向かうのか。同論考では、政府が旗振り役を務める投資への抵抗感を薄める諸政策についても言及されているが、最大の問題は、若者たちが「将来への不安を抱え、何か行動しなければならないと急がされる中」に置かれている日本社会の現状だろう(八〇頁)。何か動かなければという焦りを抱えた若者の踏み出した第一歩目が詐欺であり、その結果としての負債であった。  しかし、詐欺被害にあった若者たちの焦りはよく分かる。私自身詐欺にあった経験はないが、大学卒業後も進路が定まらず、文字通り彷徨っていたからである。『世界』で連載されていた社会学者の大澤真幸さんの「推し活という政治」(前・中・後篇)は、直接には二月の衆議院選挙における高市自民党の圧勝の要因(いわゆるサナ活)についての論考だが、考察は「推し活」という現象全般に及ぶ。その結論部分にあたる「6 救済の錯覚」で、大澤は「推し活選挙」を総括して、次のように問う。「彼らは救済されたか?もちろんされない。救済された、救済されそうだ、という錯覚をもつだけである。その錯覚のために、彼らは、敵を見誤り、味方を見誤る。まちがった者を敵と見なし、まちがった相手と連帯しようとする」(一五九頁)。投資詐欺に嵌ってしまった若者は、まちがった相手と連帯してしまった。まさに「救済の錯覚」にとらわれたのである。  一般社団法人Colabo代表の仁藤夢乃さんによる『地平』での連載「歌舞伎町で」の第16回「性売買から離れて、生きていくために」は、若者、ただしここでは「少女」たちの管理売春が行われている歌舞伎町の現状について記すにとどまらず、そこからどのように脱していくのかが語られている。いいかえれば、少女たちの「逃げ場が封鎖されていく」なかで、どのように新たな逃げ場=生きる場を作っていくのかという実践が紹介される。  仁藤さんたちが取り組むのが、当事者たちと支援者が泊りがけでおこなうワークショップである。この七月に開催された会には、日韓六人の当事者が参加し、それぞれの経験を共有した。日本から参加した一人は、中学二年生の頃から性売買をしていたが、「家にも学校にも安心できる場所がなく、家を出た彼女に最初に声をかけてきたのは、手を差し伸べる大人ではなく、性を買おうとする男だった」(一七五―一七六頁)。また、周りの大人に助けを求めた際には「あなたにも問題がある」と言われ、ハローワークに行っても「家はないの?」「未成年だからお家に帰ろう」と門前払いをくらった(一七六頁)。彼女は「大人に頼っても無駄なのだと思うようになった」(同上)という。「今日帰る家がない。孤独や絶望の中にいることに、誰一人目を向けてくれなかった」(同上)という彼女の言葉は、かつて塾という場ではあれ中高生たちと関わり、また現在も非常勤講師という立場ではあれ大学生と接する私にも重く響く。そして、この論考が示唆するのは、先述の投資詐欺に引っ掛かった若者たちも、じつは逃げ場を探していたのではないかということである。  最後に取り上げたいのが、『中央公論』の表紙写真である。ここにも二人の「青年」がいる。ただし、特集「危機の時代に学ぶべき軍事入門」に相応しく、軍人らしい彼らは迷彩服を着用し、一人は肩から銃を下げ、左手にドローンを持っている。撮影されたのが、演習場なのか、はたまた戦場なのかはよく分からないが、冒頭で紹介した「みんなここに居る」とは対極的といっていい情景である。否、もしかしたら、猫と戯れていた二人も、危機から逃げて、屋上にまで登って来たのかもしれない。猫たちだって、難を逃れるために集まっているのかもしれない。もちろん、これこそ私の「錯覚」であると思いたいが、青年が振り返って見つめる街の風景も、ところどころ赤く、燃えているように見える。ここでの救いは、青年たちの表情が穏やかなことである。  今月の論壇誌が語るところをまとめれば、安堵の表情の向こうには、人には言いづらいさまざまな苦悩や孤独、もっといえば暴力をめぐる経験があるということである。安堵の表情を浮かべるためには、錯覚でも、詐欺でも、暴力を忍ばせた大人の呼びかけでもない、真の救済と連帯が必要となる。日本社会が危機に陥っているのは自明であるとして、逃げ場は軍事なのだろうか。村上は、「全身のバランスに神経を行きわたらせ、目線と感性だけで遠くを見るのだ。風や静寂、そして人間の営みに感動しますよ」(七九頁)と記してもいた。ドローンでは捉えられない「人間の営み」に、猫のまなざしと一緒に目を向けなければと思う。(たかはら・たいち=成城大学研究員・戦後民衆運動史)