2022/11/18号 4面

プーチン戦争の論理

プーチン戦争の論理 下斗米伸夫著/評:長谷川一  プーチンは心中なにを考えているのか? 二〇二二年二月以来、世界中の人びとが知りたかったことであり、実際さまざまなことが語られてきた。だが、旧ソ連・ロシア史研究の第一人者として知られる著者は言う。「とくにウクライナ侵攻以降はロシアに批判的な言説が飛び交うが、これらの評価のなかには、筆者からすると一方的なものも見られる」(五八頁)。そこで緊急に出版された(らしい)のが本書である。著者は、その「特別軍事作戦」を厳しく非難しつつ、ロシアがなぜこのような「愚挙」にでたのか、その「論理」を専門家の立場から整理・解説している。  著者によれば、巷間言われるような、今次のウクライナでの戦争を「新冷戦」に結びつける見方は適切ではない。なぜなら対立軸はイデオロギーではなくアイデンティティにあるからだ。したがって鍵となるのは言語・宗教・歴史といった文化や文明的な観点である。そうした観点からこそロシアという国家の本質を炙りだすことができ、この戦争の論理を詳らかにできるだろう。  読解の手つきはむろん専門家のそれである。たとえばプーチンが「開戦」に先だち発表した「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」という論文だ。評者も以前に日本語訳を読んだ。正直ウクライナの独立性を認めようとしない偏った歴史観であるように感じられた。ところが著者によれば、そこで「民族」と和訳されていた語は原文ではナロード(narod)、すなわち英語のpeopleに相当する語であり、「人」「人民」と訳すべきだという。中世のウラジミール大公のキリスト教受洗を淵源とするロシア的ないしスラブ的歴史観にたつとき、「プーチンが言いたかった『民』とは、自決権を持つ『民族』といった二〇世紀的な意識ではなく、より神学的な意味での一体性・同一性を持つ人々のことだった」(一〇二頁)と理解できるのだという。ロシア的意識にあっては、民も国家も宗教と不可分であるようだ。  この意識を下支えするものとして著者が注目するのが古儀式派だ。古儀式派とはロシア正教で長らく異端とされてきた宗派である。それは、カトリック色の強いウクライナとの連携によって成立したロシア帝国にたいする土着的抵抗勢力として、民族主義を培養し、ロシアの古層に根ざす保守主義を担ってきた。一九世紀半ばクリミア戦争以降は政治的にも前景化し、旧ソ連・ロシアの近現代史において、意識と人脈の両面から重要な役割を果たしてきた。プーチンもまた、自身は出身者ではないものの、古儀式派を含む東方正教に傾倒しているのだという。その宗教観・歴史観・世界観がプーチンの論理を強力に支えている。  だとすれば、「プーチンの戦争」という半ば定型化した表現が真に意味するところは、プーチンによるプーチンのための独裁者の戦争という西側の一般的理解とは違うのかもしれない。むしろ「プーチン」とは、帝国的まなざしとある種の被害者意識とが混淆するロシアの伝統主義的保守思想の連綿たる脈流のなかに生起した一現象にすぎないとさえ思われてくる。かりにプーチンが消えたとしても、ロシア的意識はすこしも毀損されぬまま生きつづけるだろう。まさに「マトリョーシカ国家・ロシア」(八七頁)である。  ところで、ロシア史や国際政治学の門外漢である評者が本書を手にとったのは、数年前にウクライナを訪れたことがあったからだ。閲読中に去来したのは、現地で出会った市井の人びとの顔であり声だった。キーウの運転手は、俺たちウクライナの問題はNATOに入れないことだと言った。ハルキウの若いビジネスマンは、英語で話ができるのがうれしくてしかたがないと言った。廃墟の街プリピャチでは、同行者の何気なく発した「スパシーバ」(ロシア語で「ありがとう」)を遮ってガイドが言った。ウクライナ語では「ジャークユ」と言うんだ、と。  事象の冷静な理解には多様な視点からの検討が欠かせない。本書はロシアについて、極東における隣人であるわたしたちに多くを教えてくれる。ただし評者が思うに、ロシアの論理を知ることと、ロシアの責任を割り引くこととは、はっきり区別されなければならない。(はせがわ・はじめ=明治学院大学教授・メディア論・メディア思想・文化社会学)  ★しもとまい・のぶお=政治学者・法政大学名誉教授・ロシア・CIS政治史。著書に『新危機の20年 プーチン政治史』『ソ連を崩壊させた男、エリツィン』など。一九四八年生。

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