2025/12/26号 14面

特性のない男

特性のない男 ローベルト・ムージル著 大宮 勘一郎  ローベルト・ムージル未完の長編小説『特性のない男』は、二〇世紀ドイツ語圏モダニズム小説群の中でも特異な位置を占めている。撞着的に表現するなら、一際高く聳える峰であり、かつ鬱蒼極まる森である。著者の生前出版された第一巻(一九三〇年)、第二巻中途まで(三二年)でも大部なうえに、さらに膨大な遺稿部分には編集上の決着がついていない、という量的・外形的な手強さが立ちはだかる一方で、説話の約束を崩すような構成で、突き放したようでありながら細部を執拗になぞるような表現、抽象的な想念が延々と続く。我が国でも、これまで改訳を含め三種の翻訳がなされ、決して読みやすくはない原文に、いずれも苦心して添いながらの訳業であった。困惑や眩暈を覚えた読者も少なくなかっただろうが、そこに強烈な魅力を感じる読者もまた多かった。知的エロスとも呼ぶべきそうした感受性を持つ者は今日も確実に一定数存在する。本書は『特性のない男』を新たに見出し、それに魅了されるであろう可能的読者に対する非常に贅沢な贈与である。  『特性のない男』の主な舞台とされる一九一三年のヴィーンは、顧みれば幾重もの特(異)性を帯びた時空である。皇帝フランツ=ヨーゼフ一世の晩年(崩御は一九一六年)であるのみならず、第一次世界大戦勃発の直前であり、その序をなすバルカン戦争が起き、多民族を擁したハプスブルク帝政の手に負えなくなりつつあった中欧秩序の末期でもある。世紀を跨いで進行する変動は、政治の領野のみならず、学問・芸術においても生じており、沸点を迎えつつあった。ヴィーンはまさにその中心をなすのだが、それらの変動を歴史的慣習の堆積が自然法則のような鷹揚さで呑み込んでしまい、これが破滅ぎりぎりまで続く。この帝都をムージルは、それゆえにあたかも無風に描き出し、この表層における無風を主人公ウルリッヒも体現する。恒産に恵まれた市民で、知的にも身体的にも優れた彼は、さまざまな個別の特性を資質として持たないのではない。むしろ、いかなる特性をも不活性化させるこの時空と反発なしに共振する態度を身につけたがゆえに、「特性のない男」となるのである。その彼が「人生の休暇」に入り、皇帝在位七〇年となる一九一八年(!)を、帝政ドイツの向こうを張って祝い、オーストリア精神の偉大さを世に示す企画を構想する「平行運動」に偶然加わることになる。この運動を破線的縦軸として物語は進むが、全体が破局へと不可逆的に進んでいるがゆえに、その流れは澱みと区別がつかない。ウルリッヒが、父の死によってヴィーンを一旦離れるところで第一巻が終わり、ここまでを本書は「第一部 ウルリッヒ」と括っている。その彼と、亡父の家で再会した妹アガーテとが繰り広げる曰く言い難い関係が「平行運動」の混迷と綯い交ぜになり、第二巻はいよいよ錯綜を極めてゆく――こんな巨視的な要約では取り逃がしてしまう『特性のない男』の魅力を凝縮して現代の日本語読者に伝えようとする本書は、抄訳という手法でこれを実現している。  本書が抽出するのは、「愛」を主題とした部分であり、とりわけ第二巻の兄妹の関係に比重を置き、これを副題と同じく「第二部 ウルリッヒとアガーテ」としている。首肯できる方針である。すでに第一部から、ウルリッヒはさまざまな女性たちと関係を持ち、その様子は官能的というよりはむしろユーモラスに描かれる。訳者が「笑える形而上学」と名づけるのは言い得て妙である。神秘とユーモアは両立する。ウルリッヒ自身の思考はイロニーを湛えたもので、語りも大抵それに寄り添っているが、時に一歩引いて描かれる彼の姿は、他の登場人物以上に微笑を誘う。第二部のアガーテとの「神秘的」関係の原型として重要な意味を持つ、第一巻第三二章の少佐夫人との儚い恋愛に関してもそうで、ウルリッヒは『薔薇の騎士』オクタヴィアーンの成りそこないを思わせる。厳密な文献学的努力に支えられた本書は、原作のユーモアをも実によく伝えている。そのユーモアのさなかに神秘の入り口が開いているのがわかる。  解題、あとがきも読み応えがあり、評者にかねてから懐いていた疑問を思い出させてくれたので、それを最後に書き留めておきたい。いかにも男性的なウルリッヒだが、彼が夢想した可能的な愛とは、果たして男性としての愛だったのだろうか。特に第二部における彼の男性性は、思考においても発話においても行為においても、まさしくユーモラスに空転しているように見える。別の、可能的愛に内/外、自/他の境界を浸潤される彼は、男性をついに脱ぎ捨てねばなるまいが、その予感のもたらす喜悦ゆえの饒舌なのではないだろうか。(白坂彩乃・大川勇訳)(おおみや・かんいちろう=東京大学教授・ドイツ文学)  ★ローベルト・ムージル(一八八〇年―一九四二)=小説家。オーストリア=ハンガリー帝国領クラーゲンフルト生まれ。著書に『寄宿生テルレスの惑乱』『合一』『三人の女』戯曲『熱狂家たち』など。『特性のない男』は未刊に終わる。

書籍

書籍名 特性のない男
ISBN13 9784879844675
ISBN10 4879844675