2025/04/04号 4面

仏教を「経営」する

仏教を「経営」する 藏本 龍介著 高橋 典史  現代日本において「宗教」に対する世間のまなざしは、決して温かいものではない。それは地域にある寺院(伝統仏教)や神社(神社神道)も例外ではないだろう。近世から続く檀家制度を基盤にしてきた伝統仏教は、多くの人びとにとって葬式や法事のときくらいしか接点はなく、その際の布施に関してはしばしば批判的な声もあがりがちだ。単身世帯の増加をはじめとする家族形態の変化や地方の人口減少の深刻化という流れのなかで、多くの寺院ではその経営を支えてきた檀家の減少という問題に直面している。また、寺院の住職の後継者不足も深刻である。日本社会において仏教は伝統宗教の一つであり、今なおそのプレゼンスは小さくはないが、「仏教離れ」が進んでいることは間違いないだろう。  そうした日本社会に生まれ育った読者にとっては、本書のなかのミャンマーの事例は、同じ「仏教」といっても、日本におけるそれとはまったく異なる宗教に見えるのではないだろうか。文化人類学者である著者は、現実の社会・生活のなかで「仏教が何をしているのか」という問題関心から現地で長期にわたるフィールドワーク(現地調査)を行い、実際に出家生活も経験している。「律」(出家者が守らなければならないルール)を重視する上座部仏教の出家者や世俗の在家信者の姿、広く深く社会に浸透している「善行」としての布施の慣習、公的な社会福祉が未成熟な社会における寺院の社会活動の意義、政治と仏教の密接な関係などについて、実体験ももとにして分かりやすく紹介している。  本書におけるミャンマーの事例としては、「律」を遵守し世俗から一定の距離を置く「森の教学寺院」、善行を重視して社会福祉活動等を展開する瞑想センターという、二つの特徴の異なる仏教組織が取り上げられている。前者では、俗世から離れて出家者が仏教の研究や修行に励み、それを在家信者たちが支えている。他方、後者においては、現代のミャンマーで人気を博している瞑想の実践を核にして、カリスマ性のある僧侶を中心に多様な善行=社会福祉活動を実践している(同センターでは動物の保護も行っている)。それは、宗教と社会福祉とがオーバラップしている事例であり、現代日本におけるものとはまったく違う民間の福祉の実践としてとても興味深い(むしろ、「駆け込み寺」など、かつて日本にもあったさまざまな困難を抱えた人びとを受け入れるアジールとしての寺院の姿に近いかもしれない)。  これらのミャンマーの仏教組織の経営形態に共通するのは、在家信者が重要なアクターとして布施を行い組織の運営を支える一方で、宗教者による組織の管理・支配を避ける点である。そうした組織の経営形態は、宗教者(住職)を中心に管理・運営されている日本の寺院のそれとはかなり性格を異にしている。  著者のユニークさは、こうしたミャンマー仏教についての知見や経験を踏まえて、日本において伝統仏教の日本人僧侶とともに「実験寺院」の開設・運営に関わっている点である。「実験寺院・寳幢寺」とそれを運営する一般社団法人日本仏教徒協会の試みは、伝統的な檀家制度によらず、仏教を求める多様な人びとのニーズに応えようとするものであり、日本における仏教のあり方を根底から革新させる可能性も含んでいる。とはいえ、日本での実験寺院の取り組みの悪戦苦闘を赤裸々に記述した章に関しては、読んでいて息苦しさも覚えた。  もちろん、軍政が続くミャンマーには深刻な政情不安や近代的な医療・福祉の未整備など、多くの問題が山積している。そうした面では、日本は平和で恵まれているだろう。しかし、現代日本の仏教や宗教をめぐる状況は明るいものではなく、宗教一般にネガティブなイメージを抱かれがちである。また、伝統宗教の世界では、昔からの価値観や組織制度が根強く存続している。そのため、著者たちの実験寺院の試みが、すぐにさまざまな困難に直面することが容易に想像されるのだ。とはいえ、旧来の檀家制度の外側で仏教の教えや実践を求める人びとの数は少なくないだろう。一般の在家信者(または会員)によって「経営」される寺院は、現代日本社会において宗教や信仰を再定位する試みでもあり注目に値する。本書は仏教だけでなく、宗教に関心をもつ幅広い人びとにとって一読の価値がある好著である。(たかはし・のりひと=東洋大学教授・宗教社会学)  ★くらもと・りょうすけ=東京大学東洋文化研究所准教授・文化人類学・宗教人類学。二〇〇六年からミャンマーで出家を含む現地調査を行う。著書に『世俗を生きる出家者たち』、編著に『宗教組織の人類学』など。一九七九年生。

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