文芸 1月
松田樹
作家を志す学生たちの作品と文芸誌を交互に読んでいる。ヒリヒリ伝わるのは、こんな感覚だ。言葉が氾濫している時代に、自分の言葉だけが見つからない。ネット上でも現実でも、放っておいても他者の声は際限なく侵入してくる。けれども、自分の状態を表わしてくれる適切な言葉だけが見つからない。
大澤真幸「AIと人間」(『文學界』)が興味深い説を紹介している。AIを用いて文章を作成した場合、確かに記述を効率化し間違いを少なくすることはできる。しかし、その中で約八割の人間は自分の書いた内容を答えることができず、「書いたことを記憶しておらず、そして理解もしていない」ことが判明した。大澤によれば、AIは正しく誤ることができない。
東浩紀「書くことと壁」(『新潮』)は、「なぜ小説家は必然性がなくても書き続けることができるのだろう」と問うている。今日の文学を取り巻いているのは、言葉を自分の場に据え直したいという欲求である。言葉が飛び交う時代であるからこそ、私的な体験の吐露であれ、無益な表現であれ、人はぴったり合う言葉を追い求めてしまう。日記やエッセイが流行を見せているのも、それゆえであろう。この一年間の連載では、今の時代を生きる人々の書くことへの欲求を具体的に確かめていきたいと思っている。
『文學界』一月号は、そんな時代の空気を反映した特集「浮遊する言葉」。一〇人の詩人が詩とエッセイを寄せる。印象に残ったのは、國松絵梨「飛ぶ練習」。「わたしはここにいなければならない たてがきの国/ときどきことばが先にはしる からだがあたまよりはやく」。「わたし」が言葉に規定された存在であるとともに、言葉が自分を逃れてゆく焦燥感がうまく捉えられている。
言葉が氾濫している感覚。豊永浩平と星野智幸は、それを政治情勢に交差させる。
豊永浩平「G(h)etto」(『群像』)は、沖縄が米国五一番目の州となり、英語も大和言葉も体に埋め込まれたAIが「自動翻訳」してくれる世界。だが、語り手は「FriDAYが肉体につながってるのに参照する頭がない」。ゆえに、バベルの塔の神話のような混声状態がもたらされる。肉体に結びついた言葉を見失った語り手が、蜀黍焼酎や鬼餅の味、むせかえる月桃の匂いに、微かに沖縄の「王国時代」を懐かしむ結末がもの悲しい。だが、米帝国主義の下では、「月桃」はすぐさまスラム街の意に回収されるだろう。皮肉が効いた秀逸なタイトルである。
星野智幸「Democracy,Re-imagined」(『すばる』)は、民主主義が失われた近未来を描く。その制度が存在したのは「過剰な密集の時代」であり、人口三万人の現在は孤立して住んでいるのが当然とされる。「デモクラシーはただ、さまよう言葉によって回想されるのみ」と最終的には過去を懐かしむ「私」の存在も不確かとなる。民主主義という言葉が本来の肉付けを失って漂流している様子を風刺するが、文字の脱落や老人ホームのような「집」(家の意)の設定は、短い分量ではやや未消化感が残った。
一方、堀江敏幸は言葉を丁寧に嚙み締め、この状況に静かな抵抗を見せる。
『二月のつぎに七月が』刊行記念で『群像』が堀江の小特集を組み、『新潮』も短篇を掲載している。特集内の小説「河童の脚をつかむ」は、コラムを書くために農村に通う「私」の何気ない一日。そこで生まれ育った耕一さんは、「私」に村の歴史を語る。が、食卓で饒舌なのは、むしろ他所から嫁いできた妻の沙月さん。彼女は耕一の母節子から、一族の歴史や農作業の手順を語り継いできたのであった。「沙月さんは節子さんの過去を、自分の現在のなかで生きていた」。節子、沙月、「私」、村の内から外へ、過去から現在へと、言葉が丁寧に積み重ねられてゆく様子が美しい。
『新潮』掲載作「金で継ぐ」は、そうした継承を職人仕事に置き換えて描く。絵付け屋を営む父は、陶磁器の破損を金で継ぐことを趣味とする。彼が黙々と勤しむ金継ぎという手仕事には、「時のかけら」を寄り合わせ、人間同士を繫ぎ合わせる意味が込められている。「河童の脚をつかむ」では時代も場所も定かではない農村に焦点が当てられていたが、本作でも舞台は職人気質が生きる下町としか描かれていない。それはあたかも割れた陶磁器のように、時を重ねる営みが現代社会から欠けていることを表す。
似た感触を持つのは、滝口悠生「ビバノンノン」(『新潮』)。今月は、本作をとりわけ面白く読んだ。一七回忌に際して山間の旅館に親族が一堂に介する。各々の事情を抱えながら温泉に集うさまが滝口作らしく複数の人物に焦点を移しつつ描かれるが――題名の由来はドリフの「全員集合」のあの音頭だ――、興味深いのは一族がうどん打ちや陶芸といった手仕事に縁を持つ点。「しっかり捏ね合わされるようにして、ここにいるひとたちみんなが自分の生きた時間と重なり、くっついている」。ここでもやはり現代社会では顧みられることの少ない、時間の積み重ねや人間同士の繫がりが手仕事によって復元されている。
最後に、『すばる』特集「共に生きる」は、荒井裕樹「イベント化する共生」、山崎ナオコーラの短篇「氷河の国にようこそ」が印象に残った。荒井は「この十数年、政治や行政自体がイベント化してきた」と述べ、「共生」という美辞麗句こそが長期的な視野で「共に生きる」ことを阻害してきたと説く。山崎作にも似た問題意識が読まれる。書くことは手仕事に似ている。AIのように即効性のある回答を示さない。ゆっくり言葉を吟味しながら考え続けるほかない。
★まつだ・いつき=文学研究・批評。専門は中上健次。愛知淑徳大学創作表現専攻講師。共著に『批評の歩き方』『いま批評は存在できるのか』など。1993年生。
